小説

『潮の流れに杭を打て』赤沼裕司(『浦島太郎』)

 亀山の仕事で終電を逃した僕と、自分の仕事で終電を見送った乙姫の2人がオフィスに残っていた。もうすぐ春を迎える3月のことだったと思う。ドラゴンでの仕事も5年を終え、6年目に入る年だった。
「ウラシマくん、飲み行く?」
 乙姫とは何度も酒席を共にしたが、彼女の方から2人で飲みにと誘ってくれたのはそれが最初で最後だった。(僕の方から誘ったことがあるわけではなかったが。)
 乙姫が選んだ店は、オフィスと駅を結ぶ経路からは少し離れた、目立たない路地にある居酒屋だった。魚が美味しいっていうからずっと気になってたんだけど、一人じゃ来づらいしなかなかタイミングがなくって。乙姫はそう注釈をつけた。
「って言ってもこんな時間じゃ、新鮮な魚って感じでもないけどね。」
 それでも僕らは刺し盛りを頼み、互いに一杯目のビールをあおってからはそれぞれのペースに移行した。僕は2杯目のビールをちびちびと飲み、乙姫はすでに3杯目のハイボールを半分空けている。
 酒に強い乙姫だったが、さすがにちょっとハイペースだった。ちょっと酔っ払いたい、昼間の忙しい最中にそんなことを言っていた気もする。
「ウラシマくんさぁ… うちってどうなの?」
「どうって…何がですか?」
「うちの会社ってどうなのかってことよ」
 乙姫は4杯目にトマトのカクテルを頼んだあと、そう僕に聞いた。
「ウラシマくんは、うちで…やりたいことできてんの?」
「やりたいこと…ですか…」
 乙姫のこの問いは、いつか来る気がしていた。
「ウラシマくんはさぁ、亀山がうちに連れてきたでしょ。仕事もちゃんとこなしてくれるから、私たちは助かってるけど…」
 乙姫はけっこう、刺さる言葉も言う人なのだが、僕には気を遣ってというか、距離を置いてというか、少し遠回しにものをいう。
「なんていうか、あんまり干渉されたくないタイプでしょ?ウラシマくんて。だから私たちもあんまり突っ込まないまま、ずっと来てるんだけど…」
 それがとても危ういバランスだということは僕自身が最も感じていながら、無視し続けて来ていたことだ。
「実際さ…ウラシマくん自身は…何がしたいの?」
 これって説教ですか?とその時問えば、乙姫は否定しただろうが、しなかったかもしれない。
「何が…したいんでしょうね」
 トマトのカクテルを受け取って一口飲んでしかめっ面をした乙姫は、一旦グラスをテーブルに置き、
「正直さ、ウラシマくんは『オレは映像に全てをかけるんだ!』って感じじゃないじゃん?」
 そう言ってまたグラスを口に運んだ。
「そう見えます…よね」
 頰をカクテルで膨らませた乙姫は、ぐびっと喉を鳴らして、また口を開いた。
「わたしたち…ってか少なくとも私は、あなたがなるべくストレスなく働ける環境を用意したいとは思ってる。でもさ、それってきっと…会社のためで、あなたのためじゃない…。」

1 2 3 4 5 6 7