小説

『潮の流れに杭を打て』赤沼裕司(『浦島太郎』)

 自分には何があるのだろうか。何に重きを置き、何を大事にしているのだろうか。タクシーの中で僕は、またそれを考えていた。

 雑司が谷のアパートに帰宅して、食事をしているテーブルの上に、社長からの餞別の菓子折と、乙姫から手渡された箱を、紙袋から出して置いた。乙姫は何をよこしたのだろう。革張りを模したコーティングを施した、それなりにしっかりしたボール紙の、平たい箱だった。「大事なものだと思うから」彼女はそう言った。

 彼女のいう、僕にとっての大事なものとは? 思考の末というよりも勢いで、僕はコートも脱がぬままその箱のフタをとった。

 そこには数枚の書類と、DVDのディスクが一枚、入れられていた。透明のスリムケースに入れられたDVD-Rには、白い盤面にマジックで「SHS」と手書きしてあった。

 SHSは、Super Health Shoes。僕が亀山に初めて仕事を頼まれた、あの健康シューズの会社だ。これはきっと、そのときの映像。それにその企画書とコンテが、紙の書類で入っていた。
予期せぬ中身に僕は瞬間、思考停止した。企画書の日付を見て、僕は胃に重みを感じた。2011年。あれから8年。全てのきっかけとなったこの仕事。
 乙姫にはきっとそんなつもりはなかっただろう。ただ単に最初の仕事だからと、思い出を渡してくれたのだろう。しかし「無理に開けなくてもいい」彼女はそうも言っていた。胃の痛みのなかに僕は、彼女の気遣いを理解した。
 若者の時期が過ぎたことに気づかないまま準備を怠った哀れな男として、僕は今、この箱を開けてしまった。今までで一番大きな痛みが僕の胃を襲ってきた。

 この状況を覆せるのだろうか。過ぎた時は戻らない。せめて時が過ぎていることに気づいていれば。

 暗い視界の中で、僕はその箱にフタをし、紙袋に戻してゴミ箱の脇に置いた。今は決意などできない。このまま布団に横になろう。
 早く明日が来て欲しい。いや、永遠に明日など来て欲しくない。竜宮の日々を冷静に、プラスな感情で思い辿れる日が来るのだろうか。起きてもまだ胃が痛いかもしれない。海にでも行ってみるか。亀でも助ければ、竜宮城へ連れて行ってくれるかもしれない。

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