まず、どこから話し始めればいいだろう。僕の動画に関する話だろうか。それともしおりの現状について? もしくは東京で一人暮らしを始めた2年前まで遡るべきだろうか。違う。あの女だ。あの女がやってきたあの日から、この物語は始まるべきなのだ。
ピンポン。
そう、女はやってきた。誰もがそうするように、インターホンを押して。
そのとき僕はなにをしていたか。僕はリビングで大の字に寝転がっていた。前方には天井のシミ。頭の中で、それは様々な形に変容した。しおりの顔に見えたかと思ったら綿菓子になった。鬼かと思ったら小言の多い母の顔だった。シミは僕のストレス度チェックシートの役割を担っている。当時の僕はストレス度90といったところだ。理由ははっきりしていた。たったひとつしかない。
ピンポン。
ところで、僕には友達がいない。恋人も。
ピンポン。
ではインターホンを鳴らすのはいったい誰だろう。アマゾンの配達員だろうか。だとすれば随分仕事熱心だ。迷惑なほどに。
ピンポン。
僕はついに体を起こした。ドアを開けるまで鳴り止みそうもない。おちおち考え事もしていられない。ピンポンピンポンピンポン。はいはいはいはい。返事をしながら廊下を足早に歩き、ドアを開けた。
そこには女がいた。白い着物を着たおばあちゃんだ。年寄りの年齢はよくわからないが、六十過ぎではないだろうか。女は僕を見ると、目を細めて笑った。
「雨が激しくて道に迷ってしまって。どうか一晩ここに泊めてもらえないでしょうか」
確かに雨は降っていた。風は吹き荒れ、雨粒がマンションの共有廊下を打ちつけている。こんな雨の中、老婆を外に出すのは気の毒だ。家に入れてやろう。
と、思うわけがない。迷子ってなんだ。子供でもないのに。つまりそれは呆けているということではないか。今頃家族が探し回っているかもしれない。面倒なことに関わる気は毛頭ない。
「あの」と女は寒さをアピールするように二の腕を摩り始めた。いや、夏だよ。雨とはいえ気温は25度を上回ってるよ、という言葉をぐっと呑み込み、「いま部屋が散らかってるんで」と頭を下げ、その流れでドアを閉めようとした。すると女がドアの隙間に往年の刑事ドラマばりに足を突っ込んでくる。初めからこの展開を予想していたのか、足だけは丈夫そうな革靴を履いている。白い着物に革靴だ。「大声を出しますよ」女はまた目を細めて微笑んだ。時刻は深夜12時過ぎ。マンション内で僕は『当たり障りのない人』で通っている。そのほどよい立ち位置を壊したくはない。僕は諦めて彼女を部屋に上げることにした。泊めはしない。上げるだけだ。