小説

『遅すぎた女』yui.chi(『鶴の恩返し』)

 僕は彼女のグラスを片付けた。女がじっと窓の外を眺めている。
「また、一緒に遊びたいですねぇ」
 また? 窓の向こうに目をやる。土砂降りの雨が、まだ降り続いていた。

 
 女が部屋に戻ると、僕はまた大の字に寝転がった。こんな時間は久しぶりだった。僕はいつも動画のことばかり考えていたから。僕はゆっくりと目を瞑る。
 小学生の頃、校庭開放というものがあった。広い校庭をせっかくだから休みの日も使ってくれたまえ、若いんだから体を動かしてくれたまえ、という学校からの計らいだ。受付に名前を書くだけで、広い校庭が休みの日も僕たちのものになる。だがそこへやってくるのは僕だけだった。600人もの生徒が通う学校で、休日に校庭にいるのは僕1人なのだ。
 校庭の真ん中に立つと、世界に1人取り残されたような気分になった。受付にいる用務員のおじさんにバットとゴムボールを借り、僕はとにかく身体を動かした。投げる人間がいないからノックをした。取りに行く人間がいないから、ボールを追いかけた。ボールを取ったその場所で、僕はまたノックをした。
 いったい他の生徒はなにをして遊んでいるのだろう。ゲームだろうか。どこか別の場所に出かけているのだろうか。遊び場を選ぶポイントさえ、僕はみんなとずれていた。打ち損ねたボールが校舎の方に転がっていく。
 その日、ころころと転がるボールは誰かのつま先にぶつかった。長い手を伸ばし、彼女はボールを拾う。そこで吹くことが決まっていたかのような風が、茶色の髪をなびかせる。サンダルに短パン、細長い手足に、高い身長、茶色い目。僕は彼女に、しおりに駆け寄った。改めて向かい合うと、彼女の容貌は僕が出会った誰とも違っていた。よく晴れた日で、茶色の瞳がいつもより透き通って見えた。
「珍しいね。校庭に来るなんて」話しかけたのは僕の方だ。
 しおりは小さく頷いただけで返事をしなかった。「宇宙人」と言われたことを気にしているのかもしれない。
 僕は同じように黙ることを決めた。クラスで一人きり黙ってしまえば、その誰かは仲間はずれになる。でも二人でいるときに二人とも黙っていたら、僕たちは同じだ。僕はバットを置いて、両手を胸元で構えた。しおりは少し戸惑いながら僕にボールを放った。
 しおりは次の週も現れた。次の週も次の週も。打ったボールを取りに行くのは自然にしおりの役目になった。ノックに飽きればキャッチボールを始めた。会話はなかった。いつもは賑やかな校庭で、僕たちのボールを取り合う音だけが響いた。
 平日に顔を合わせても、僕たちは他人のふりをした。孤立したもの同士が仲良くすれば笑い者になる。僕はしおりが『友達』だと誰にも言わなかった。しおりがからかわれているときも、僕は見て見ぬふりをした。日曜日だけ、僕たちは友達に戻った。
 そうして数ヶ月が経つ間に、僕たちはボールをいくつもなくした。あさっての方向へ飛び、校庭の隅へ転がり、茂みに消え、校舎の外へと飛び出した。不思議なことにその後でいくら探してもボールは見つからなかった。まるで誰かが持ち去ったみたいに。毎週のように無くす僕たちに用務員のおじさんは呆れ顔だった。「これで最後だぞ」脅すように渡された青いゴムボールが、実際に僕たちの最後のボールになった。

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