小説

『遅すぎた女』yui.chi(『鶴の恩返し』)

 夏休み直前にその日は訪れた。僕たちがキャッチボールをしていると、校庭に二人のクラスメートがやってきたのだ。誠と健人だ。しおりを「宇宙人」だと笑ったのが誠で、そのことをクラスに広めた健人だった。誠は僕たちを見つけると、なにかを思いついたように健人に耳打ちをした。すると健人は校庭から走り去り、残った誠が僕たちを逃さないように校舎の前に座り込んだ。僕はしおりにボールを投げることだけに集中しようとした。だがうまくいかなかった。誠がにやにやと僕たちを見つめている。暑い日だった。僕は何度も額の汗を拭った。五分ほどして健人が数人のクラスメートを連れて戻ってきた。途端に静かだった校庭が、彼らの声で埋め尽くされていく。「うわ」「まじか」「きもっ」「宇宙人と野球?」「え、あれ、ボール?」「卵なんじゃい?」「交尾?」「子供産まれんの?」「こえ〜」「バケモン出てくんじゃね?」「茶色いの?」「それ、ウンコじゃん」「はははははははははははは」
 僕は彼らに背を向けて歩き出した。彼らの声から逃げるように、徐々に駆け足になった。

バン。

 という音がして、僕の意識は現実に引き戻された。天井にはシミ。大の字に寝転がった僕はゆっくりと身体を起こした。

バン。

 音は外ではなく、部屋の中から聞こえてくる。僕は立ち上がり、女がいる寝室へと歩き始める。

 
 校舎の裏から僕は学校を抜け出した。土手を超え、川沿いの原っぱを歩き続けた。まだ彼らの声が聞こえてくるような気がした。僕はしおりを置いて逃げ出したのだ。「バカにするな」とも、「友達だ」とも叫ばなかった。頭が熱くなっていく。その熱を逃がすように、僕は思いっきりボールを原っぱに投げつけた。
「おこってる?」
 振り返ると、息を切らしたしおりが立っていた。初めてしおりの声を聞いた気がした。だけどその声に応えることができない。資格もない。
僕はしおりから目を逸らし、意味もなく原っぱを見やった。そこで気がついた。今、投げつけたばかりのボールがないのだ。
 辺りを見回す僕を見て、しおりがすぐに事態を察した。僕たちは手分けしてボールを探し始めた。最後のボールだと言われていた。額から汗が落ちる。なくしてはいけない。ボールは僕たちを繋ぐ唯一の絆だった。
しおりがある一点に目を止めた。そこには僕の背丈ほどの茂みがある。茂みは風に揺れていたが、一部分が不自然な動きを見せている。
「なにかいるよ」しおりが言った。

 バン。

 寝室のドアに耳を当てると、壁になにかをぶつけるような音がする。ドアノブを回すと、すっとドアが動いた。見てはいけないという言葉が頭を過ぎったときには、僕は部屋の中にいた。

 
 そこには猫がいた。真っ白な猫だ。茂みの中で僕の青いボールを齧って遊んでいた。学校は土手を超えたすぐのところにある。僕はこれまで消えたボールのことを思い出した。
「もしかして、お前の仕業だったの?」
 白い猫は返事でもするようにニャアと鳴いた。
「ひとりだったのかな」しおりが猫を抱きかかえた。
「こんな猫見たことない。仲間はずれにされてたのかも」

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