小説

『潮の流れに杭を打て』赤沼裕司(『浦島太郎』)

 僕は何も言えない。乙姫は言葉を選びながら続ける。
「あなたが…働きやすい環境をつくることで、わたしたちの仕事が…滞りなくまわる。これで正しいんだと思ってたんだけど…なんていうか…。あなたが来て…来てくれて、それなりに長い時間経ったでしょ?」
 僕は自分の指紋だらけになったビールのジョッキをこねくり回しながら、だまって小さく頷く。
「このままでいいのかなって。あなたももう30半ばで、出会った頃の私くらいの年になった。このまま私たちに付き合わせてていいのかなって。」
「私たちに付き合わせて」という言い方を乙姫はしたが、それは彼女の気遣いで、その言葉の意味するところは「お前はこのままでいいのか」だ。30も中盤になって、「自分の仕事」もつくれず、人から回ってきた仕事をこなしている日々。それでお前はいいのか、という彼女なりのメッセージ。そう僕は受け取った。
 密かに憧れている女史と二人で飲んでいるというのに、僕は胃が痛くなった。しかしこんな言葉で発奮できるようなら、ずいぶん前から僕はここにはいないだろう。自分の本当の望みはなんなのか。わからないまま、見つけないまま、起こった事象に流され、波風のない環境に身を委ね、5年も経っていた。
 自分の年齢と置かれた環境への焦りを実感したのは、明確にこの夜からだった。年齢はそれまで、ただ増えていく「数字」だった。しかし事ここに至って初めて、「与えられた仕事以外できない35歳」という状況が、牙を剥いて自分に襲いかかってきた。本当は獣はずっとそこにいたのに、檻にも入っていなかったのに、僕はずっと見ないふりをしていた。

 その後も乙姫や社長、亀山の僕に対する態度は変わらなかった。変わらずよそよそしかった。その後の一年して、僕はドラゴンを辞めることにした。

 その一年間は、結末を知ってから映画をもう一度見返す、そんな感じの日々だった。ひとつひとつの仕事ごとに、彼らの自分に対する対応を、そこに付随するよそよそしさを、乙姫のあの日の言葉と、「何がしたいの」という言葉と重ねながら、確認していく作業だったように思う。
 結局のところ自分が何をやりたいのかなどわかっていない。ただそこに居づらくなっただけだ。
 竜宮城の魚たちも、長居する太郎に、そろそろ帰らないものかと思っていたんじゃないだろうか。僕もきっと、少し長居をしすぎたんだろう。6年はそれなりに長い歳月だ。

 亀山にも特に事前に伝えなかった。乙姫にも。直接社長に辞職を伝えた。社長は特に意外そうではなかった。この一年、僕はそういう空気をまとっていたのだろう。慰労の宴会を開いてもくれたが、僕も彼らも、結局よそよそしさは変わらぬままだった。乙姫はビールの後、ハイボールを1杯だけ飲んだ。
 乙姫がタクシーを手配してくれて、見送り際に、会社からの餞別とは別だから、と、何か紙袋で箱を手渡された。大事なものだと思うから渡しておくけど…無理に開けなくてもいいと思う。そう小さく言って、「じゃあね」と僕をタクシーに乗せた。3人が手を振る中、行き先を聞く運転手に、彼らに悪いからとりあえず出してくれと僕は告げた。

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