小説

『おちこちあいめ』曽水あゑ(『古事記』)

「私たちはこの世界に居るしかありませんが、旦那様がこちらの住人になるにはまだ早いのです。こうして通って下さるのは、昔のことが気にかかり、償いたいお気持ちがあるせいでしょうが、私たちは穏やかに過ごしています。どうぞご心配なさらず、旦那様の今を大切にお過ごしください。きっといつか遠い先で会えますので、それまでどうかお元気で、と」
 二人の間に何があったのかは聞かなかった。ただこちらの住人、とは借金を抱えたら人外とでも言わんばかりの大仰な表現だと思いながらも、後で必ず伝えると約束したのだった。

 結局家に着いた時には陽はとうに上っていて、朝早い家内と家の土間で顔を合わせた。
 昨夜のことは、『帰り道に迷って、挙句道を尋ねた先で泊めて貰った』とあらましを伝えたのだが、ナギオはナギオで少し違う言い訳をしたものだから、後々少しだけ面倒なことになったのだった。

 

 ナギオは病床で奥方に請うたらしい。
「この期に及んですまない、俺が死んだら離縁してくれ。
離縁と言っても届けは出さなくていい。出したとして家も店もぜんぶお前のものだ。
ただ夫婦でいるのはこの世で終わり、あの世へ行った後は別々と言うことだ。それをわかってくれるだけでいい」
と。

「光吉さん、ようお出でくださいましたあ」
 明るい声とは反対の、暗めの洋装を纏いモモコさんが出てきた。去年までは夫婦で揃って着物姿と言うこともあったものだがなあ、と既に懐かしい。
 忌明けの今日、モモコさんが話をしたいと言うので、その申し出を受けて訪問した。
「どうですか、もう落ち着かれましたかな」
「はい、お陰様で。店は息子たちに任せてあるし、なんとか。家は少し静かになってしまいましたけどねえ。それより今日は無理言って来てもらってすみません」
 二ケ月程前に寡婦になったばかりのモモコさんはにこにこしている。元々笑い顔なのでこういう時でさえ同情されにくいのだが、実際気丈なものだと思う。
 モモコさんが是非にと言うので、私たちは神棚の間に移動した。畳の部屋にはナギオの遺影が飾られ、横には桃が供えてある。
 手伝いの人が茶を置き一礼して退くと、モモコさんは戸を閉め私に対面した。そうして先述の話になったのだ。
「本当に離縁するわけではなくても、それを聞いた時は思わずかっとなりました」
 しかも、昔離れ離れになった人のために彼岸では独り身でいたい、と正直に宣ったらしい。遺影を見つめるモモコさんの表情にも、流石に翳りが見える。

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