小説

『おちこちあいめ』曽水あゑ(『古事記』)

 暗闇に洞穴のような玄関口がぽっかり浮かぶ。随分狭い入口だと思ったら、なんと半分は大きな岩で塞がれていた。岩の横を通ると耳がつきんと鳴ったが、盛塩と水が置かれているので曰く付きなのだろう。
「ナミコと申します。姓の方は色々ありまして、今はご容赦くださいませ」
 居間の真ん中にある囲炉裏まで案内され、意味有りげな挨拶を頂戴した。
 女、もといナミコさんはよくよく見ると随分と年若い面立ちをしている。うちの高校生の末子よりは上だろうが、どういった事情持ちか。
 それにしても寒い部屋だ。囲炉裏に火を入れるには早い時期だと思っていたが、隙間風がどこからか吹いてきて、汗で冷えた足に当たって痛い。
 喉が渇いていたので水を一杯頂戴した。一気に飲み干すと、それを見ていたナギオが、
「ナミコさん、それは『あちら』の水でしょうかね?」
 と聞く。ナミコさんは「ご心配いりません」と頷く。
「あちらってどちらや?」と私が聞くと、「俺の家や」とナギオが答える。
 よくわからないので眉を寄せると、ナギオは苦笑して包みを差し出してきた。
「光ちゃん、これも家から持ってきたやつや。食べるか」
「お、モモコさんのナス漬か」
 携帯するほど好物のそれは、ナギオの家では定番で漬けているものだ。夏場になると、モモコさんが茶請けとして持ってくるので私も馴染みだ。
 漬物を摘まもうと身を乗り出した時、胸元で紙を重ねたような音がした。取り出してみると、小さな朱いでんでん太鼓だった。宴会宅の子供の玩具を何かの拍子に懐に入れてしまったらしい。
「なんや、ええものでも出してくるかと思ったら。いい大人がそれで遊んでたんか?」
 ナギオがくつくつと笑う。ナミコさんも控えめに口角を上げた。
「ええやないか、今日は明日からの作業の発破かけに、ちと飲んだんじゃ。酔ったら適当なことくらいするやろ」
 照れ隠しに悪態をつく。それと同時に明日の用事を思い出した。
「ああ、そうや。明日出荷があるんやわ……早よ帰らないかん」
「わかってる、わかってる。ただな、夜明けまで待たんといかん理由があってな。あのな、ここ『境』なんよ」
 両手で制す仕種のナギオを前に、私は二つの意味で驚いていた。
『境』は集落からかなりの距離がある。とても気まぐれに踏み込んだ脇道から歩いて来たとは、私自身が信じられなかったのだ。
「えぇ、『境』?」
 そして場所そのものだ。『境』と言うのは単なる地名だが、崖や穴ぼこ、湿地だらけで地元の者は容易に踏み入らない、危険地帯の代名詞でもある。ましてや夜に動き回って良いはずがない。そんなところを歩いていたとは。
「だから、も少し明るくなるのを待たんと」
「そりゃ……ああ、だから」
 道理で水や漬物が自宅のものだと強調していたはずだ。ナギオは『境』に残る、畏れ敬うべき言い伝えに倣ったのだ。

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