小説

『おちこちあいめ』曽水あゑ(『古事記』)

 モモコさんは頷き、この歌ね、とそっと人差し指で歌の箇所を指す。
「亡くなった人を恋しがって詠んだ万葉集の句なんです……幸せにしたかったって、あの人ずっと歯痒さを抱えてたのかなあ。そう考えると、正直悔しい気持ちになるんですけどね」
 ただ、最期の望みなんで叶えてあげようって思いました、とまた笑う。
「離縁してあげます、って遺影を前に一人で呟けばいいんでしょうが、それも何か寂しくて。光吉さんは私たちの色々な事情も承知済みだし、知っていて貰えると私も楽なので甘えてしまいました……ご勘弁ください」
 私なら構いやしませんよ、と言うと、モモコさんは深く頭を下げた。そして遺影に決別の言葉をかけた。
「ナギオさん、私たち夫婦の縁は今切れました。光吉さんが証人です。次は夫婦じゃないと思うと寂しいけど、いつもありがとうと言って貰えて私は幸せだった。また何かの縁で会いましょうね……今までありがとうねえ、うん」
 静かな間ができた。
「あいつはあなたと一緒で本当に幸せでしたよ」
 こちら側にいた間は、きっと。
 モモコさんはふふと笑い、供物の桃を手に取った。
「光吉さん、これ食べません?」

 
 山道から右手に反れた小道の先、少しだけ人目を忍んだかのような場所にそれはあった。軽トラックから降り、歩いて近づく。
「おー、この岩じゃあ」
 周りに人が住んでいた形跡はまるでないが、あの時確かにこれが家の前に重々しく構えていた。
 岩の脇には七寸ほどの八足があり、水が供えてある。傍には見事な榊が縄で囲ってある。『境』には思いのほか人が来るらしい。
 早速私は少量の漬物が入った包みを台に置き、例の写真を懐から取り出した。それを地面に据え火をつける。
「ナギオ、俺には歌はわからんから、これはお前が持っとけ」
 モモコさんが手に余ると言うので私が引き取った。そして考えた末に、ここに持ってくることにしたのだ。
 色のない写真が赤くなって、ちりちりと焦げて黒く変わってゆく。
 合わせていた手を解き、顔をあげた。岩の後ろを見ると、盛土の跡なのか地層のずれなのか一段高くなっている。そこにある腰丈の洞穴が先ほどから気になっていた。近づいても奥まで見えないが、中から風が噴き上がるような音がする。
「あれは」
 入口付近の陽射しがぎりぎり当たるところに、汚れた円筒が落ちていた。その側面から三方に棒と紐が伸びている。太鼓の玩具だ。ところどころ破れているが褪せた朱色が残っている。
 もしかすると紐の片方が千切れていないだろうか。
 胸がそわりと浮き立ち手を伸ばした時、急に現れた小さな影がそれを見えないところまで引き込んでしまった。

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