『境』の地名は『生と死の境界が顕われた場所』と言う意味に由来する。つまり言い伝えでは、この一帯の何処かに存在する境界を越えてしまったら、二度と生きて戻っては来られないと信じられているのだ。
その為地元の者は、境界の向こう側(=死)に行ってしまわないよう、石を置く(=境界を封じる)、供物をする(=向こうの異形に食物を捧げ、自分を追わせない)、『境』のものを口にしない(=向こうのものを食べたら、元来たところへ帰れない)などの慣習に従うよう、子供の頃から言い聞かされる。
これはイザナギが黄泉の国から逃げ帰り、妻であるイザナミと決別した日本神話の逸話が基になっているそうだ。おそらく危険な場所から遠ざけるための言い付けと神話が結び付き、迷信として残ったのだろう。
「ここのもんを食べるなんて、タキさんが聞いたらとんでもないことやろ?」
そしてうちの家内は非常に信心深く、迷信でも頭から信じる性質だ。
「うちのは水一滴でも怒るわ。バレたら俺、家に入れんようになる」
ふたりで大笑いする。ナギオとは家族込みで気の置けない間柄だ。
「それにしても境に家があるとはなぁ。この辺は他にも家はあるんですか?」
私はナミコさんを伺い見た。
「いえ、ここだけかと」
聞いてみたものの、やはりとしか思えなかった。先の理由から、普通はこの辺に居を構えるはずがない。
「こんなところでお一人とは。不便やと思いますが、なんでまた……あ、失礼やろか」
「……ここには子供とおりますが、事情は」
「まぁ、色々あるんやわ」
ナギオがやんわりと遮る。
「そうですか、お子さんと。それなら寂しくはないですなあ」
その時話の種にされ気に障ったのか、赤子の泣き声が聞こえてきた。泣き止まない気配にナミコさんは断りを入れ奥へと立つ。
その後ろ姿を見送りながら、私はここへ通うナギオのことが気になった。
「お前、ここに来るのは初めてじゃなかろう? いつも何しに来とる?」
「……ナミコさんは昔世話になった家の人でな。今は訳あってここにおるが、なんせ不便なとこやけ、時々食物やら持っては様子見に来とるんや」
ナギオは幾らか素直に答えるつもりらしい。
私は単刀直入に聞くことにした。声を潜め顎で奥を指す。
「……その、子供はお前の子か?」
ナギオは呆れたような情けないような、何とも言えない声をあげた。
「光ちゃん、それはないで。やましいことは何もないで」
「そうかいな……なんやその素っ頓狂な顔は。この状況を周りから見てみいよ。子はともかく、夜中に通う目当てが何と思われるかくらい、わかるやろ」
「そやけど、光ちゃん」
ナギオは眉を八の字に曲げて肩を竦める。私が思案顔で息を吐くと、懸命にこちらの様子を伺ってきた。その姿が幼少の時分を見ているようで、無碍ない気持ちになる。
「モモコさんに何も話せてないのは、事情があるからと思っちゃいるけどな。何もないにしても、重ねて家空けたら心配もするやろ」
そう言うと、ナギオは私が何かしら聞いていると覚ったらしく、俯いて動かなくなった。
「すみません、泣き止まなくて」