小説

『投げキッスの放物線』吉永大祐(『女生徒』)

 ファミレスに残されたママのことを思うと、胸が潰れそうだった。今頃、固くなった和風ハンバーグに、おろし醤油でもかけているところだろうか。どんな味がするだろうか。想像しただけで、私の口の中にもパサパサした肉の感じが広がるような気がした。
 スクランブル交差点の前で立ち止まり、ふと上を見上げると、渋谷駅の壁面の看板が目に飛び込んできた。
『かけがえのない皆と、忘れられないハワイへ』
 旅行会社の広告だった。キャッチコピーの上には、アロハシャツに身を包んだ家族四人の写真。胸だけやたらでかくて線の細い母親の隣に、浮き輪を被った娘と、シュノーケル用のゴーグルを頭にかけた息子がヘラヘラ笑っている。その中心に、六個に割れた腹筋を見せつけんばかりに、ギラギラした父親がドヤ顔を浮かべている。
 かけがえのない皆。私はその看板を眺めながら、パパやお姉ちゃんのことを思った。こんなアホみたいな家族には絶対なりたくないけれど、それでも、もうこんな風に四人が集まって旅行に行ったりすることもないかもしれないのかと思うと、胸がきゅうっとなった。大好きな夫と長女が家を去って、残ったのは私だけ。姉に顔面も脳みそも奪われた妹、できの悪いメガネっ娘、ただ一人。そんな私に、ママという存在を受け止め切れるわけがなかった。
 信号が青に変わり、私はメガネを外した。視界をあえて奪うのだ。もう何も見たくない。もう誰の顔も見たくない。ママの顔も、自分の顔も。
 微かな視力を頼りに、私は反対側を目指した。黒いアスファルトの海を、ふらふらと漂うクラゲみたいな私を、すれ違う歩行者たちが気味悪がって避けていった。もはや、気味悪がられているかさえもわからなかった。このまま歩いて行けば、いつかハワイに着いちゃったりして。なあんて。
 私はメガネを取ると、無敵になった。そして、とても素直になった。
 ごめんなさい、パパ。近頃私は、パパの愛した人を傷つけてばかりです。
 三日続けて、黒いバラの刺繍の夢を見たのは、その夜からだった。

「実紗さんって、いい匂い」
 さっきから莉穂が私の腕に鼻を擦り付けてクンクンしている。
「ちょっと、くすぐったいよ。それに今汗かいてるし」
「それがいいんじゃないですか」
「変態でしょ、あんた」
「匂いフェチって言ってください」
 後輩の莉穂はとても綺麗な子で、それでいて頭もすこぶる良かった。お父さんはお医者さんで、莉穂も将来は女医さんになりたいらしい。それでいてちょっとネジが外れているところがまた何とも愛くるしかった。
 放課後のテニス部の更衣室。時間が止まったような二人だけの空間。私たちの肌は、オレンジジュースに浸かったみたいに光っている。
 いつまでも離れない莉穂。可愛らしいやつ。私は昔、パパに見せてもらったムツゴロウさんのように、莉穂を胸元に引き寄せて、髪の毛をワシャワシャしてやる。うんと可愛がってやる。さすがに顔は舐めない。「ああ」とか「うう」とか言っている莉穂。ああ、私もこの子みたいな顔になりたい。

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