小説

『投げキッスの放物線』吉永大祐(『女生徒』)

 思えば、四月からパパは上海に単身赴任が決まっていたし、お姉ちゃんも大学生になるのを機に、一人暮らしを始めることになっていた。ママと二人きりの生活が始まるなんて、そんなことずっと前からわかっていたはずなのに、いざそうなってみると、頭の中のイメージとはだいぶ違う日常が待っていた。
 私との二人暮らしが始まってから、ママはなんだかとても、か弱くなった。
「あああ、すっかり冷めちゃった」
 従姉妹の恵里子姉ちゃんの結婚式の帰り、ママは私を渋谷のファミレスに連れ込んだ。式の間中、緊張のせいで食事がほとんど喉を通らなかったらしい。それに、ママはだいぶ酔っていた。
「長電話してるからでしょ」
「だって、お姉ちゃん話長いんだもん」
 お姉ちゃんとは、ママの姉の佳代子叔母さんのことだ。
「だったら出なきゃいいじゃん」
「一人娘が嫁いでった夜だもん。お姉ちゃんだって寂しいのよ」
 ママはいつだってそうだった。自分のことは二の次で、いちいち相手の都合に合わせる。その時も、自分がお腹ペコペコだって言ってたくせに、佳代子叔母さんの電話にわざわざ出てしまう。
 ママが注文した和風ハンバーグ御膳の鉄板はとっくに静かになっていた。当然のことよ、と言わんばかりのママの顔、どことなく憂いを帯びた寂しそうな顔、それらの表情がいちいち私の癪に触った。「お姉ちゃんだって寂しい」。その一言が、「パパもお姉ちゃんも出て行って、私だって寂しい」、そんな風に聞こえた。
「だったらいちいち、冷めちゃったとか言わないでよ。あてつけみたいに」
「どうしたの、実紗」
 あの目だった。どんな時もあなたを心から心配しています、と訴えかけてくるような目。おまけに、お酒が回って充血していたママの目は、性格の悪いピエロのそれに見えた。それでなくとも、酔っているママは醜くて、卑猥で大嫌いだった。
「わかってる。実紗も、パパとお姉ちゃんがいなくなって寂しいんだよね」
「は?」
 全然わかってない。ママは私のことなんて何もわかってない。
「いい加減にしてほしいんだけど! そうやって勝手に文句言ってんのはいいけどさ、ちょっとはこっちの身にもなってよ。自分だけ不幸だったらそれでいいみたいな。怖いんだけどマジで。いつか我慢してきたもの全部爆発させて、何もかもめちゃくちゃにするとか、そういう無責任なことだけはやめてよね」
 私は立ち上がって、ママを見下ろしていた。手足が小刻みに震えていた。ママが怯えるような目で私を見ていた。
 私はその後一人店を出て、そのままセンター街を駅に向かって歩いた。目を刺すようなネオンサイン。パチンコ屋のけたたましい音。ドブから立ち込める変な臭い。酔っ払った大人の男女の下品な会話。その中をズンズンと進む私。オーバーサイズのスウェットを着た男の子たちが、ナンパしに来るどころか、指を差して笑っていた。
 歩いている間、涙がポロポロこぼれ落ちた。レンタルドレスの安物のコサージュが疎ましくて、胸元から引きちぎってやりたかった。

1 2 3 4 5 6 7