小説

『投げキッスの放物線』吉永大祐(『女生徒』)

「私も早く先輩みたいにうまくなりたいなあ」
 莉穂は私のテニスに憧れてくれていた。いつだってその一言で、私の気持ちは救われる。
 私は莉穂を練習前の乱打に誘ってやった。それがよっぽどうれしかったのか、莉穂の潤んだ瞳が私を見つめ、首が大きく縦に動いた。
 莉穂の打ってくる球は、いつだって真っ直ぐだった。まるで分度器を当てたように正確な弧を描く。スポッ、スポッ、という音が繰り返し、繰り返し、コートの中に響き渡る。
 私は知っている。うまくなるためには、人を蹴落とすためには、そんな馬鹿正直なボールばかりじゃダメだってこと。もっと相手が嫌がる、底意地の悪いレスポンスが必要だってこと。でも、それを当分私は莉穂に教えてやらない。私は心のどこかで莉穂のことを馬鹿にしている。自分よりも弱い立場のままにすることで、私は莉穂を可愛がり続けることができるから。私はまだその関係を手放すわけにはいかない。
 私はメガネをクイと引き上げた。迫ってくるボールがよりくっきりとする。ボールが地面を跳ねた瞬間、私は莉穂の逆サイドに思いっきりボールを叩いた。
「ごめん!」と、わざとらしい声を出す私。
「ナイスボール!」
 莉穂がボールを追いかけていく。小さくて細い莉穂の背中。さっきの鼻クンクンといい、ボールめがけて走る姿といい、莉穂の前世はきっと犬だったのかもしれない、近頃本当にそう思う。それくらい莉穂は可愛い。それに引き替え、あの子ときたら―。
 莉穂がボールを追いかけているちょっとの間、私は渡り廊下に目をやっていた。二階に続く階段の脇で、一人の少女が黙々と素振りをしているのが見える。菜月だった。
 菜月も莉穂と同学年で、私の後輩。でも、莉穂とは全然似ても似つかなかった。菜月にはなんというか、莉穂にはない闇のようなものがあった。人と群れることもしなかったから、当然他の部員たちともそりが合わず、練習が終わった後も、さっさと一人で帰ってしまう、そんないわゆる暗い子だった。
 私たちは菜月がいないところで、いろんなことを噂した。菜月の家は貧しい母子家庭で、母親が夜のお仕事をしているから、しょっちゅう父親でもない男の人が家を出入りしているだとか、菜月自身もJKだと偽って、怪しい仕事をしてお金を稼いでいるだとか、好き勝手に言っていた。そんな噂をどこかで耳にしたからか、練習の時にも、時折私たちに対して、とげとげしい態度を取ったりすることもあって、それが余計に皆の反感を買った。
違う、と一言否定すればそれで済むことなのに。誤解なら誤解だと言えばいいのに。それでも菜月は頑なに自分のことを語ろうとしなかった。
 だから、今もこうして、ふて腐れたように素振りを続ける姿からは、何の可愛げも感じられない。そんなに私たちが嫌なら、テニスなんてやめちまえよ。
「実紗先輩、いきますよー」
 莉穂の声にハッとして、視線を戻す。莉穂がボールを持って構えている。
 私には莉穂がいる。それで十分。甘えてくれて、憧れてくれて、いつまでも弱々しい存在でいてくれて。莉穂とこうして接していることで、私はあの黒いバラの夢のことも、ママとの毎日も忘れることができた。

 部活の帰り道だった。その日、練習後に上級生だけで練習試合をしたので、莉穂たち一年生はとっくに帰ったはずだった。

1 2 3 4 5 6 7