小説

『裏島物語』高崎登(『浦島太郎』)

 おかめが振りほどこうとしても、三平の右腕は岩のように動かない。
「お前にトマエが務まるか、オレがみてやる」
 三平はおかめの身体を引き上げ、胸元に手を伸ばして強引に服を脱がそうとした。おかめの抵抗はまったく通じず、腰から引き寄せられ、そのまま覆いかぶさるように押し倒された。
 三平の顔が胸にむしゃぶりついてくる。おかめは咄嗟に髪の毛をつかんで耳にかじりついた。つぶれるような声を発して三平が横に倒れる。おかめは立ち上がり、棒のように立っていた小太郎の手を引いて屋形のほうへ走り出した。
突然後ろから引っ張られて首が反りかえり、青い空が開けた。何事かと思ったら、首に縄がきつく食い込んでいた。思わず身をよじらせ、バタバタしてもがく。
 頭の奥までぎゅっと締め付けられるようで、くらくらした。どんどん力が失われ、膝も折れた。小太郎の泣き叫ぶ声が、遠くから聞こえてくる。
 自分はこのまま死ぬのだろう。そう思ったとき、何か黒い物体が突然見えたような気がした。それは、魚の目のように見えた。魚の目は、前を向いているのか横を向いているのか、太郎に聞いたことがある。そのとき答えた太郎の顔が、あざやかによみがえった。声まではっきり聞こえた。ああ、やっぱり生きていたんだね、じゃあ、代わりにおらが死ぬのか。そのほうが、みんな幸せだべ……。
 魚の目が、すーっと離れて遠くなる。一匹の魚がひれを動かす姿に変わった。なぜか、自分は海に溺れている。
 サブーーーーン、と、水が砕け散り、体が浮き上がったと思いきや、空の景色が目に飛び込んできた。
 おなかの上には小太郎がのっている。背中に感じる、何か冷たくて固い感触。横目には、ひっくり返った船、その下で溺れる三平の姿。脇では子亀が泳いでいる。
 亀? 亀の上にいるのか?
 いま、黄泉の国に向かっている。きっとそうだろう。
 腹の上で、小太郎が動き、口から水が噴き出て顔にかかった。何とも言えないしょっぱい味が、舌の先で走る。むせるような嫌な臭いが鼻腔を突く。体の節々がヒリヒリして痛かった。スーッと体の力が抜けて、楽になり、浮いたような心持になった。
 おかめは笑った。急におかしくなって。顔いっぱい塩水まみれになりながら、アハハハハ、と笑った。塩水のせいか涙のせいか、空がにじんで見えた。

 流人は別れの言葉を告げようと松林のところで待っていたが、あの日以来おかめは現れなかった。近くにいた漁師にたずねてみると、何でも今は女ふたりで海女をしているらしい。前の船の男は大きな亀にぶつかって船が壊れ、今はケガの養生に努めている、とのことだった。その際おかめと息子が無事だったのはなぜかと聞くと、亀に助けられたとかどうとか、そんな腑に落ちない話をされて要領を得なかった。浦島太郎の話といい、ここの村人たちは、空想に長けて物語るのがうまいことよ、と流人は思った。
 あずけておいた服もあることだし、もう一回くらいは会えると思っていた。それは甘かったかもしれない。あちこちに擦り傷を負いながら、歯を食いしばって生きる女である。やわらかい絹地など見たら食らいつくに決まっているのだ。せめてものはなむけと思ってあきらめることにした。
 流人は妻と子の待つ都へ立った。

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