小説

『みせもの』ひろくん(『鶴の恩返し』)

 江田さんが初舞台だからと気を利かせ、一匹五千円もする天然の元気な縞蛇を購入して来ていたのを思い出す。
 観客は嚙みちぎる瞬間を今か今かと待ち望んでいる。
 珠子は今までの自分の過去を思い出した。辛かった事や悲しかった事を思いながら、蛇を口元に引っかけ、両端を手で引き落とす。
 息を吸って、渾身の力で噛みちぎった。
 ぶちん!
 のけぞる珠子の視界を一瞬、黒い物体がよぎる。
 ウィッグだ。ウィッグが飛んでいる。
 頭が風を感じた。
 気付いた時には、客席が静まり返っていた。

 髪を引っ張られたら、笑顔。
 悲しい時には、笑いなさい。

 珠子は反射的に満面の笑みを作った。ツルツルの珠子の頭を見た子供たちが、一斉に笑い始めた。
「禿げてるー」
 子供の声だった。
 一瞬置いて大人も笑った。ハプニングと思う者もいれば、計算された演出だと勝手に思う者もいる。
 やがて会場は大きな笑いの渦に巻き込まれた。
 貼り付いた笑顔で会場を見回す珠子はこの時、天職を手に入れたと感じた。

 公演後、珠子はテントから遠く離れた公衆トイレに行き、吐いた。
 蛇の生き血が流れてまるで自分の血ではないかと錯覚した。
 吐しゃ物の中の蛇の残骸を見て、口から鼻から酸っぱい胃液がまた溢れ出す。精神ではカバー出来るとは思っていたが、そんな生易しいものとは違っていた。どうして今こんなにも過敏に反応してしまったのだろう。
 珠子は抗癌剤治療をして一週間以上経過していた。
 食欲があまり無いのは分かっていた。肉や魚を遠ざけた。ずっと、好きな菓子パンを食べては、本番を根性で乗り切ろうと自分を過信していた。
「感染症に気を付けてください。」
 病院で、中山の言葉に対し、話半分で、聞いてるフリだけしていたのは何を隠そう自分だった。
 天然の蛇の生き血なんて何ともないよ。滋養強壮にいいよむしろ。

 アパートに着いて、熱を測ると三十八度あった。吐き気もして、体中、悪寒が走った。
 病院からの着信が大量に入った電話に、珠子は折り返しかける決意をした。きっと、もう二度とここへは帰ってくる事はないかもしれない。珠子は片付けようと思ったが、手を止めた。また戻って来たいから、思いっきり生活感のある部屋にして出て行こうと思った。
 キャリーバッグに着替えと通帳を入れる。靴は一足あればいい。父と母の写真以外、全部置いて行く事にした。
 江田さんに謝りの電話を入れる。誠に勝手とは思いつつ、探さないで下さいと告げる。
 江田さんは激怒していた。当たり前だ。看板とも言える目玉イベントを一つ失ったんだもの。珠子はその事に対して詫びた。そして最後に、素性を明かさないという見世物小屋の不文律を破り、自分が末期癌である事を白状した。
 今なら母の気持ちがわかるような気がする。

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