小説

『蟲の禍』篠崎フクシ(『文字禍』)

砂埃が目に入り、手の甲で瞼を擦りながら、北淵鈔烬(きたぶちのしょうじん)は朱雀門から向こうの遠く聳える皇城、大宮を見凝めた。還学生(げんがくしょう)として遣唐使に随行し、唐の都長安では学問に打ち込むも、この黄色い砂にはいいかげん辟易していた。
 そして鈔烬は溜息をついた。
 京の都にいるころは周囲に神童だなどとおだてられ、いつかは大使である藤原常嗣朝臣や慈覚大師の博識ぶりに追いついてやる、などとうそぶいていたものだが、ここにきて自分が井の中の蛙であることを嫌というほど思い知らされていた。安南で客死した、憧れの晁衡のような才覚もなく、文宗皇帝に拝謁など、もとより望むべくもなかった。
 しかし一つだけ、自分には特殊な能力が備わっていることを自覚していた。いや、備わっているとは誇大な自己顕示に過ぎず、正しくない。実際は、明徳門の門前で胡人(ソグド)の露天商から絁(あしぎぬ)で手に入れた能力だったからだ。
「それは、何じゃ?」
 あちこちほつれた絨毯に、西方の陶磁器が雑然と陳列されていて、なかから一つだけ選り出すと、鈔烬は尋ねた。一見、何の変哲もない急須のようだが、鈔烬にとっては妙に魅力的な色合いだった。ほとんど剥がれ落ちた銀鍍金(メッキ)の残り滓と地の鈍色がうまく調和していた。
「ほお、お客様はお目が高い。そいつはたんなる急須ではございません」
 ターバンを巻いたソグドの老人は、商機を逃さぬようにと身を乗り出し、目を細めた。
「たんなる急須ではない、とはいかに」
「こうして、蓋を開けまして、茶を淹れる要領で蟲を入れて、それから湯を注ぎます。それだけでございます」
「ちょっと待て、蟲とはなんとけったいな」
「けったいでございますか? もちろん、どんな蟲でもいいわけではない。毒があっちゃ困りますからね。でも、ま、大抵の蟲は大丈夫でしょう。それよりも大切なことは、自分がそれに成りたい蟲である必要があるということです」
「成りたい蟲、じゃと?」
 鈔烬は会話が噛み合っていないことに苛立った。それとも、異国の言葉が自分に理解できないだけなのか。
「そうでございますよ」ソグドの老人は、可笑しなことを訊く客だとでもいうように、首をひねった。「あとは、一晩乾燥させた蟲を煎じて、飲むだけです」
 おかしな仕掛けでもあるのかと、しばらく急須の中を覗きながら、鈔烬は会話の内容を整理していた。黄色い砂粒が、風に運ばれて暗い器の底に吸い込まれる。そうか……。
「なにか、効用があるのじゃな?」
 あれ? 顔を上げると老人の姿は絨毯の雑貨たちとともに消えてしまっていた。着物にしのばせていた、貨幣がわりの絁もない。鈔烬は狐につままれたような顔をして、明徳門の往来をきょろきょろと見回した。街は妙に静かだった。

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