小説

『蟲の禍』篠崎フクシ(『文字禍』)

 数日後の夜、北淵鈔烬は部屋で一人、書籍の山に囲まれて、物思いに耽っていた。李白の漢詩集の隣に置いた鈍色の急須に目をやる。
 ふと、ソグド人の言葉を思い出し、自分が蟲に成るところを想像してみる。ちょうど藪蚊の死骸が机の隅に落ちていたので、それに決めた。すぐに蚊を摘んで急須に入れ、湯を注いだ。気色悪いな、と思いながらも好奇心が勝り、湯飲みに入れた液体を恐るおそる口に含む。無味無臭だ。
「お、おおお……」
 湯が鈔烬の喉を通るやいなや、身体の奥がむず痒くなった。蟲が全身の血液を巡っているような感覚だ。そのあと、信じられない異変が起こった。湯飲みを持つ手が徐々に消えていくではないか。
「おお、おおおお⁈」
 手だけではない、みるみるうちに全身が消えてしまい、意識だけが浮遊している気分になった。いや、浮遊ではない、空を飛んでいるような感覚だ。空を飛ぶ……、もしやと思い、壁に備え付けられた鏡に視線を移す。はたして、そこには一匹の藪蚊が映っているだけだった。
 蟲と成った鈔烬は、自由を得たような心持ちになり、宿舎から出て空高くまで飛んでいった。月明かりに照らされた、碁盤の目のような条坊はとても美しかった。同時に、皇帝ですら長安を空から俯瞰することはできないと思うと、嬉しくなった。世界広しといえども、自分だけに与えられた特権なのだ。
 元に戻るには想像するだけでよかった。
 座布団の上で人間の姿に戻った鈔烬は、興奮冷めやらぬうちに筆を執った。この不思議な急須を入手した顛末を記録に残し、帰京して一冊の書物をものすのだ。
 その時、はたと鈔烬は思う。今は政情も不安定だ。この能力を使えば、戦の役にも立つだろうし、皇帝への上奏がかなえば、科挙に通らずとも相当な地位に就けるだろう。早速、仲間の留学僧、自然(じねん)に相談することにした。

 密教僧の自然は、几帳面な性格の鈔烬とは違い、破天荒なところがあった。自然は例の急須を掌にのせて唸った。
「ぬうう、にわかには信じられん話じゃな」
「そうじゃろう、マロもはじめは半信半疑だったのじゃ。しかし、勝手な夢幻でないことを、ソチがマロの証人(あかしびと)となって、まずは大使様に一緒に進言してもらいたい」
「ふん、蚊のほかに、別の蟲でも試したのかい?」
 鈔烬は頷いた。蚕の芋虫で試してみたが、ほとんど動けず実利に乏しかったし、飛蝗(バッタ)も跳ねるだけでそれほどの高揚感も得られなかった。やはり、羽が付いていて飛べるのがいいだろう、というのが鈔烬の暫定的な結論だった。
「どれ、ワシも一つ試してみようぞ」
 自然は胡餅を一口齧り、茶を飲むように蟲茶を飲んだ。赤ら顔で、何やらいやらしいことを考えていそうな顔つきだったが、真面目な鈔烬は自然の腹のうちを探ることはしなかった。
「お、おおお……」

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