小説

『夢みてえな一錠があんだけどよ』田中慧(『スピードのでる薬、怪盗紳士ルパン』)

 ションベンをちびるかと思ったぜ。なんせ、世界が一切の動きを止めてるんだからな。
 まさか、飲んだ自分達だけが動ける薬があるなんて思いもしねえだろ?
 ウェルズは事務所の前を歩いてた一人の婆さんを指差したんだ。
 俺に向かって英語で何か言ってきやがったから、婆さんをよく見てみた。
 じっくり見てると、完全に時間が止まったわけじゃねえんだ。婆さんは、ぶっ壊れた歯車ぐらいのスピードで動いてたんだよ。例えが下手だって? うるせえよ。
 そこでやっとアニキが口を開いたんだ。お前が飲んだのはスピードのでる薬だ、ってな。
 アニキはベイビーちゃんを取り出すと、空に向かって一発ズドンと撃ち込んだ。
 俺は肩をすくめたが、あのクソデケえ音は鳴りやしなかった。
 アニキはベイビーちゃんを少し下にずらした。空間座標ってやつだよ。
 すると、ベイビーちゃんのあった位置に撃ち込まれたはずの弾丸が回転しながら留まってやがった。アニキがその弾丸を触れって言うもんだから、人差し指で少しだけ触れてみたんだ。
 見ろ、この指を。完全に皮膚が裂けちまってる。くそ、酔狂な遊びをしやがるもんだぜまったく。アニキは指を押さえて痛がってる俺を見て笑ってやがった。
 俺も何か、スピードを体感したいと思った。
 ちょうどハニーブルが見えたもんで、跨ったんだ。目の前を通る大通りに走る車も動いてんのか分かりゃしねえくらいチンタラ走ってやがったからな。その間をすり抜けて走るのは爽快だと思ったんだよ。
 だが、ハニーブルはいつものように快適な風を与えてはくれなかった。
 歩いた方が早いんじゃねえかってくらい、遅い。
 どうやらそんなバイクに乗っている俺がまぬけだったようで、アニキとウェルズは顔を見合わせて笑っていやがった。それに、もっと有効な使い方があるぜ、って言うんだ。
 アニキとウェルズは事務所の隣にあるハンバーガーショップに入った。
 そう、いつも混んでるあの店だ。
 店の中では若い、頭の悪そうなネエちゃん達が茶をしばいてる途中だった。
 アニキはネエちゃん達に近づくと、机の上のハンバーガーやポテトなんかを店の中に放り投げ出したんだ。それらは店内が無重力であるかのように、空中で留まってたよ。
 俺は呆気にとられながら見てたんだが、ウェルズは手を叩いて笑い、ネエちゃんが飲もうとしていたコーヒーを奪い取った。まるで学のねえ行動だと思ったが、ウェルズはそのコーヒーをネエちゃんの頭からぶっかけた。
 コーヒーはごくごく僅かなスピードでネエちゃんに降り注いでいく。
 人間の反射神経なんて零コンマ何秒なわけもねえだろ?

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