小説

『ただ、単純に。』鷹村仁(『しろいうさぎとくろいうさぎ』)

 理沙は黙って下を向いている。その表情ははじめと変わらず硬いままだ。理沙が何かを話し出すまで待った。
 自分の思いをさらけ出したいわけではなかった。言葉では何とでも言えるし、さらけ出すことが正解だとは思わない。だからここ数日間は何も言わずに今、理沙に言ってきた事を実行してきた。だけど今日、大島と話して気持ちが変わった。仕事に戻るのを呼び止め、理沙の状況を直接見た大島に、どうすればいいのか相談したのだ。
「ちゃんと言葉で言ってあげたほうがいいと思います。一方的な押しつけじゃなくて。理沙さんが気が付いていない行動だってあるかもしれません。その事を伝える事で安心出来たりするんです。すぐに良くなるとは思いませんが、不安や嫉妬なんかの気持ちの問題はゆっくりと解決すると思うんです。」
 大島の言葉。特に真新しい言葉ではないかもしれないが、かと言ってこれ以外の事が思いつくこともなかった。だからちゃんと理沙には伝えようと思った。
 静かな時間の中、理沙がゆっくりと不安が混じった声で話し始めた。それはとても小さく、弱々しかった。
「どうしてこんな事までするの?」
「どういう意味?」
「・・・あなたはたぶん何もしていないんだと思う。だけど私が勝手に騒いで、勝手に不安になってる。自分でも分かってるのに止められない。きっとその事で言葉を交わせば、疑って、攻撃してしまう。こんなめんどくさい女、いっそ捨てちゃえばいいじゃない・・・。」
「めんどくさいなんて思ってない。」
「思ってる。」
「思ってない。」
 こんな事本当は感じてはいけないのかもしれないが、少し面倒だと感じていた部分もあった。だけどここでそれを言ってしまったら全てが終わってしまうし、今はそんな事問題ではなかった。
「今すぐに安心して欲しいとは思わない。これからゆっくりでいい。理沙が安心できるようになってくれればそれでいい。」
「・・・。」
「もう一度言うけど、俺は理沙とずっと一緒にいたいと思ってるだけだ。」
 何も答えない。
 そしてそこからずっと無言が続いた。1時間・・・2時間・・・3時間・・・ただリビングには時計の針だけが動く音が聞こえてくる。その間の静寂と緊張に耐え切れず何度もこちらから何か話そうと思ったがじっと耐えた。上手く言葉には出来ないがこちらから何かを言ってしまえば何かが壊れてしまう気がした。
 ――――――途中でそのままで寝てしまい、目が覚めた時には理沙は朝飯を作っていた。結局前と同じくどちらからも何も話さずにこの夜は終わってしまった。
「おはよう。」
と理沙が声をかけてくる。
「おはよう。」
 と、こちらも返す。昨晩のことなどなかったかのように理沙は黙々と朝飯を作っている。顔を洗い、歯を磨き、スーツに着替え、用意してくれた朝飯を食べる。その間言葉は交わさない。理沙の顔をチラッと覗き見る。特に緊張をしている表情でも、落ち込んでいるような表情でもない。昨晩の事をどう感じてくれているのだろうと思ったが、あえて聞こうとはしなかった。

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