小説

『ただ、単純に。』鷹村仁(『しろいうさぎとくろいうさぎ』)

 玄関で靴を履きながら見送ってくれる理沙に声をかける。
「今日、早く帰れると思う。」
 ちょっと声が硬かったと思う。
「分かった。」
 しかし理沙は落ち着いてやさしく返事をしてくれた。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
 ゆっくり玄関を閉める。
 朝の天気は晴天で、マンションの下を見ると幼稚園のバスが迎えに来ていた。子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
 その光景を見ながら玄関でのやり取りを思い出す。
「・・・。」
 ほんの二言の会話だったが、理沙の声と表情は前より柔らかかったんじゃないかと思う。
 ちょっとした変化が嬉しくて顔がほころぶ。

 夫が笑顔を見せて玄関を閉めた。私もそれに応えようとできる限りの笑顔で送り出す。昨晩の事があったから上手く笑顔が出来ていなかったかもしれない。
 リビングに戻ると朝の光が窓から部屋に差込み、その光に誘われるようにベランダの窓を開ける。晴天を感じながらマンションの下を見ると夫が歩いている。
 昨晩夫は私のためにちゃんと話しをしてくれ、黙っている私のそばにずっといてくれた。夫が私を思って行動してくれるように、私もそれに応えなくちゃいけない。信用しなくちゃいけない。大丈夫。きっと大丈夫。
「・・・。」
 マンションを少し出た所で夫に後ろから声をかける女性がいる。振り向いた夫は笑顔を見せる。あの女性は確か同じマンションの下の階に住んでいる人だ。たぶん20代中頃で愛想の良い綺麗な女性だ。二人は楽しそうにそのまま駅に向かって歩き出した。きっとたまたま出勤が一緒になったのだろう。
 大丈夫。
「・・・。」
 きっと大丈夫。

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