小説

『空蝉の部屋』緋川小夏(『檸檬』)

 ざりり。
 乾いた感触をつま先に感じて歩みを止める。そこには干からびた蝉の死骸が転がっていた。
 近ごろ、あちこちで蝉の死骸を見かける。コンクリートとアスファルトに覆われた都会の街並みの一体どこに、これだけの蝉が生息しているのかと不思議になる。
 暗い土の中で外の世界に出るときをじっと待ち、短い夏を謳歌して、あっけなく死んでゆく。強い陽射しに焼かれ、人に踏まれて、やがて雨に流され朽ち果てて。それが蝉の一生だと頭では理解していても、さざめき立つ気持ちはどうにも収まらない。
 せめて交尾くらいはできたのだろうか。そのくらいの「いいこと」がなければ、生きる意味なんて無い。つま先で蝉の死骸を側溝に追いやり、日傘を傾けながらぼんやりと考える。

 私が目指している場所は、電車とバスを乗り継いだ海と川が混ざり合う河口の近くにある。そこはいつも体の芯が痺れるような妖しいにおいがする。
 築五十年は軽く越えているであろう古い木造アパートの共同玄関は、いつも無防備に開け放たれていた。クーラーなど持たない世帯ばかりなので、少しでも風通しを良くするためなのだろう。
 私はサンダルを脱ぎ、木製の大きな下駄箱の一番奥に押し込んだ。建物の中は埃っぽく、あらゆる生活の臭いが混ざり合って空気が淀んでいる。いくら玄関を開け放して風を通したところで、建物全体に染みついた黴臭さは、そう簡単には消えてくれない。
 ぎしぎしと床を軋ませながら階段を上り、一番奥の部屋の前に立つ。表札はかかっていない。隣部屋のドアの横には読み終えた古新聞と雑誌の山が、今にも崩れそうになりながら乱雑に積まれてあった。
「私です……琴子です」
 軽くノックをしたあと、扉に口元を近づけて自分の名前を告げた。
「入れ」
 すぐに無愛想で乱暴な声が返ってきた。私はドアのノブを掴み、軽くまわして手前に引いた。鍵はかかっていない。みしっ、と湿った音をたてて、ドアが開いた。
「ほら。今日は美味しそうな梨が出ていたから買ってきたの」
 部屋の主は私の姿をちらりと横目で見て、感心など無いと言わんばかりに頷いた。寝起きのぼさぼさ頭に無精ひげを伸ばし眼光だけは鋭いその姿は、どことなく異様な雰囲気を纏っている。
 わたしは亮悟の部屋を訪れるとき、手土産に必ず果物を買う。亮悟が果物好きなことを、よく知っているからだ。買うのは、その季節の旬の果物が多い。前回の訪問時は西瓜、その前は枇杷とサクランボだった。
「梨……これは幸水って品種かな。食べるでしょう?」

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