小説

『空蝉の部屋』緋川小夏(『檸檬』)

「いらない。何も食べたくない」
「食欲が無くても梨なら食べられるでしょ。今すぐ剥くから、ちょっと待っていて」
「……勝手にしろ」
 亮悟はそう言って、またプイと横を向いてしまった。機嫌が悪いのは、いつものことだ。私は構わずに流し台の下にある扉を開けて、小さな果物ナイフを取り出した。
 この部屋の主である早川亮悟は、昔、私の夫だった人だ。
 三年前、亮悟は酒に酔って小さな小競り合いから傷害事件を起こした。
 示談金を市議会議員である私の父親が負担し、なんとか大事には至らずに済んだ。もともと結婚を反対していた両親にここぞとばかりに離婚を勧められ、亮悟からも離婚を切り出されたこともあり、私たちは離婚した。
 別れてからというもの、亮悟は全ての意欲を失い働かなくなった。やっと見つけた土木作業員の仕事も、建築現場の足場から落ちて腰を痛めて辞めざるを得なくなった。さらに心を病んでしまい、生活保護を受ける身となった。
「おい、何をやっているんだ。いいからこっちに来い」
「ちょっと待って。これだけ、あとこれだけ梨を剥いてから」
 私は亮悟に腕を掴まれて畳の上に押し倒された。流し台の隅に置いていた梨が落ちて、床の上をごろごろと転がる。せっかくの梨が傷んでしまうのが気になった。
 これ以上、琴子に迷惑はかけられない。亮悟はそう言って、自ら去って行った。私は亮悟を引き留められなかった。今も心のどこかに、亮悟をここまで追い込んでしまったのは自分だという拭いきれない負い目がある。
あのとき、示談金の無心を親に頼まなければ。あのとき、亮悟の手を離さなければ。あのとき、両親に言われるままに離婚なんてしなければ。離婚届に判を押さなければ。
「たられば」をあれこれ並べ立ててみたところで、それは死んだ子の歳を数えるようなものだ。無意味。それは頭ではよく理解している。
 私は亮悟に対する気持ちを、自分の中で持て余していた。
 亮悟の痩せた手が、私のスカートを捲り上げて素足をさする。ブラウスのボタンは乱暴にはずされて、キャミソールの上から乳房を乱暴に揉まれた。
 開け放した窓からツクツクボウシの大合唱が流れ込む。どこかの軒下に吊るされたままになっている風鈴が、夏の終わりの風に煽られて寂し気な音色を響かせていた。
「自分で脱げ」
 ふいに亮悟が体を離し、顎をしゃくりながら私に言った。私は黙って立ち上がり、スカートの下に穿いていたものを自分の手で脱ぎ捨てた。そして再び畳の上に横になり、両腕で亮悟の頭を掻き抱いた。
 皮肉なことに、私は亮悟に乱暴に扱われているときだけ、自分が生きていることを実感できた。そして横暴な態度に従うことが、亮悟に対する罪滅ぼしなのだと思っていた。

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