小説

『空蝉の部屋』緋川小夏(『檸檬』)

 いよいよ、というときになって、亮悟があっけなく私から体を離した。
「……どうしたの」
「うるせえ」
 どうやら今日も駄目だったみたいだ。
 服用している強い薬の副作用のせいか、亮悟は以前のように私を抱くことができなくなった。歳も歳だし、そんなものなのかもしれない。たぶんここで変に慰めの言葉などかけたりしないほうが、お互いのためだ。
 私は脱いだばかりの衣服を拾い集めて、淡々と下着だけ身につけた。亮悟は下半身だけ剥き出しの状態のままで胡坐をかき、私に背を向けて静かに窓の外を見ていた。
「琴子。もう、ここへは来るな」
 思いがけない亮悟の言葉に、私は一瞬、我を忘れた。
「え、どうして? どうしてそんなこと言うの?」
「もう俺のことは忘れろ。忘れて、新しい男とさっさと結婚しろ。いいな」
「いいな、って……そんな簡単に言わないでよ」
 亮悟は窓際に置いてあった煙草を手に取り、一本だけ抜き取って口に咥えた。すかさずどこかのスナックの名前が入ったオモチャみたいなライターで、ぞんざいに火を点ける。吐き出される白い煙が、網戸を通り抜けて空へゆっくりと上ってゆく。
「俺は一人でも生きていける。でもおまえは、こんなところに通っていたら駄目になる」
「そんなことない。だって私には亮悟が必要なの」
「必要?」
 亮悟が卑屈な笑みを浮かべた。
「それなら、どうして離婚したんだ?」
「それは……」
 私は言葉に詰まり、亮悟の目を見つめた。その瞳は何も映しておらず、がらんどうだった。
「もういい。もう充分だ」
 私からの言葉を遮るように、亮悟は何度も「もういい」と繰り返した。
 きっと亮悟は、ずっと前から気づいていたのだ。私が亮悟への罪滅ぼしのためにここに来て、己の身体を差し出していたことに。
「……そうだ、梨。せっかく買って来たのに。すぐに剥くから一緒に食べよう」
 私は流し台の前に立ち、再び一心不乱に全部の梨の皮をむいた。何かしてないと、涙が堰を切って溢れ出してしまいそうで怖かった。
「はい、剥けたよ。どうぞ」
 あちこち塗装の禿げた小さなローテーブルの上に、梨の入った皿を置く。亮悟がカットした梨を一口頬張ったのを見て、私も一切れ口に含んだ。
「私、これからも来るからね。亮悟が何と言おうと、ここに来るのは絶対に止めないからね」
「勝手にしろ」
 亮悟が梨を咀嚼しながら、ぶっきらぼうな口調で答える。

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