小説

『カメトオトヒメ』志田マイ(『浦島太郎』)

「そりゃ、俺みたいな見ず知らずの男に触れられるのは嫌だろ」
 俺はそう言って台所に向かった。シャワールームからは再び水音が響いた。
 冷蔵庫を漁り、献立を考える。そこには今朝ここへ着く前に市場に寄り道をして仕入れた魚や野菜が詰まっていた。切り身にしてもらったサーモンと、数種類の野菜を取り出す。足元に置いていたクーラーボックスも開けてみる。帆立貝が入っていた。俺は軍手をはめて手際良く貝の殻を剥き、野菜を切り、下準備を済ませた。
 フライパンにバターを溶かし、サーモンと帆立貝を焼く。醤油を垂らすだけでご馳走になる。レモンを軽く絞って様子を見る。その間に野菜を電子レンジに入れた。温かくなったそれを皿に盛り付けて、その横にサーモンと帆立貝を並べる。シンクに転がっていたオレンジは片手鍋に絞り、蜂蜜と醤油を加えて火にかけた。色鮮やかなオレンジソースが出来上がる。お姫様をもてなす準備は整った。
「お風呂、ありがとう」
 潮の香りを拭い去った彼女は闇に溶けてしまいそうな黒髪とヘテロクロミアの海のように深い碧の瞳を持っていた。トレンチコートを着ていてもわかる手足の長さは同じ人間とは思えない。フェルメールが描く少女のように中世的な顔がこちらを見つめていた。ターバンは巻いていないが、肌は真珠のように白く滑らかだ。
「良い匂いがする」
「え、あ、そう。何か食べるかと思って」
 俺はリビングに広げていた荷物を足で蹴って隅に寄せ、テーブルに料理を並べることに専念した。
「座ってて」
 俺がそう言うと、彼女は黙って長い脚を折りたたみ、椅子に座った。トレンチコートが捲し上げられ、太腿が否応にも目に入る。
「・・・・・・ハーフパンツも置いてたと思うけど」
「着替えがないって言ってたから」
 そう言って彼女はハーフパンツを投げて寄越した。
「お気遣い、ありがとう」
 穿いてもらっていた方が有り難かったようにも思える。
 紅茶の入ったマグカップを手渡し、俺は彼女に向き合って座った。
「ごめん、仕事部屋だから狭いけど」
 俺がそう言うと、彼女はゆっくりと頷いた。
 この部屋には最低限の生活必需品しか置いていない。料理を置くと一杯になってしまうほどの小さなテーブルと、二脚の椅子。ソファもテレビもなかった。
 いただきます、と俺が両手を合わせると、彼女もその真似をした。湯気が立つ料理に手を伸ばす。彼女は静かに紅茶を飲んでいた。
「名前は?」
「・・・・・・オトヒメ」

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