小説

『カメトオトヒメ』志田マイ(『浦島太郎』)

「仕事だよ」
「拾い食いをするみたいだし」
「断じて手は出さないよ」
 俺は平静を装いながらサーモンの身を崩し、彼女の取り皿に移した。乙姫はトレンチコートに包まって器用に椅子の上で三角座りをし、フォークでその身を掬った。袖口から細く白い腕が露になる。俺はホットミルクでも作るよ、と言ってそそくさと台所に逃げた。
 結婚しているのは事実だったが、妻との関係はうまくいっていない。
 急な仕事だと嘯いて着の身着のままここに来たのも、家出みたいなものだ。
 この部屋は学生時代に借りたものである。海辺の風景を撮るのが好きで見つけた部屋だ。今でも海を撮りたいと思ったときにはここに来る。しかし、結婚しても解約しなかったこの部屋を彼女は良く思っていない。家賃は自分で払っているが、それでも妻の不機嫌は治らなかった。妻は男の匂いがすると言って眉を顰めてしまうのだ。掃除はそれなりにしていたが、彼女は寄り付きもしなかった。
「写真、見てもいい?」
 リビングから声がした。床に広げた荷物にアルバムが混ざっていたのを思い出した。
「いいよ」
 俺がそう答えるより先に乙姫は頁を捲っていた。俺は片手鍋でホットミルクを作り、リビングに戻った。空になったマグカップに温かい牛乳を注ぐ。
「奥さんは、どれ?」
 彼女が見ていたのは結婚式の二次会の写真だった。俺が撮った写真ではない。酔いつぶれた大人たちが肩を組んで愉快そうに写っている。
「一番綺麗なドレスを着ている人だよ」
「みんな、きれいだよ」
「君からすればどれも同じに見えるかもしれないな。たぶん、俺の近くにいるだろ」
 乙姫は写真を指差した。その指は確かに俺の隣にいる人を指していたが、それは中学生の頃から付き合いのある男だった。この部屋にも度々遊びに来ている気の置けない友人だ。
「違うよ。妻は、えっと」
 写真の中に妻を探したが、すぐには見つけられなかった。ようやく見つけた妻の顔は疲れて少しやつれている。二次会で草臥れた大人の写真を見せるのも忍びなく、アルバムを乙姫の手から奪い取った。代わりに普段撮っている風景を収めたアルバムを手渡した。海が中心の風景画である。
「人は撮らないの?」
 そう言われ、俺は千載一遇の機会だと思った。
「基本的には撮らないね。でも、君のことは撮ってみたい」
 乙姫はアルバムを捲るばかりである。
「宝石箱みたいだね」
「何が?」

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