小説

『カメトオトヒメ』志田マイ(『浦島太郎』)

「乙姫?」
 その人は確かに乙姫と名乗ってもおかしくない容姿をしていた。
「本名は名乗らないつもりか。そうだな、じゃあ、どうして海に?」
「帰りたくて」
「帰る?」
「そう、竜宮城に」
 それが何の比喩なのか、俺にはわからなかった。
「じゃあ、玉手箱も持ってるのか」
 俺は冗談のつもりでそう言った。乙姫はすっと立ち上がり、トレンチコートのベルトに手を伸ばして少し緩めた。
「決して箱を開けてはなりません」
 彼女はそう言って笑みを零した。初めて見た笑顔だった。
 浦島太郎は玉手箱を開けてしまい、老人になってしまったのだったが、俺はそれを開けたとき、どうなってしまうのだろう。
「そう言うのなら、緩ませないでくれよ」
 俺はそう言うだけで精一杯だった。
 俺は彼女から目を逸らして、野菜にオレンジソースを擦りつけた。
「あなたは、何て呼べばいい?」乙姫が言った。
「じゃあ、カメ」
「浦島じゃないの?」
 俺は床に放り出していたリュックサックからカメラを取り出した。重厚な黒い箱のようなそれは男の手でも両手で抱えるほど重い。
「カメラマンなんだ。だから、カメ」
「のろまなの?」
「のろまというか、鈍いとは言われる」
 妻に、という言葉は濁しておいた。
 俺はリュックから缶詰めを幾らか取り出した。非常食として入れておいたものだ。適当に見繕った缶詰めを開け、乙姫に差し出す。果物、鮪、焼き鳥。乙姫は果物缶を手に取った。
「拾って良かったの?」
「何が?」
「それ」
 乙姫は俺の左手を指差した。薬指の指輪が光る。
「ああ、結婚してるんだ」
「でも、うまくいってないんだね」
「・・・・・・どうして?」
「だって、こんなところに一人だし」

1 2 3 4 5 6 7