「おい」太郎は、隣で突っ立っている僕を見上げた。「桐生君、気合が違うな」
「太郎ちゃんには勝てねえじゃん。負けねえもん」
「翔太氏、お前とまだやってない」
「僕はいやだよ、殴られ損は」
「絶対に負けない方法は、二つだ。勝つ、若しくは戦わないだ。ヘミングウェイとか読むと、闘って勝つしかない気になる」
「僕はブコウスキーのタイプだ。ヘナチョコの酔いどれだよ。……今日は、頬を叩かないのか」
「別に、気合入れるほどのことでもない。負けてもいい」
桐生君には聞かせられないセリフだ。
と、ここでぷぅんと一匹の蚊が僕らの周りに寄って来た。
僕が手で払うと、蚊は太郎の頭あたりへ飛んでいく。襟足周りから、すいっとトップまで登っていくと、頭の上でくるくると回る。
「太郎ちゃん、蚊は気に入っているみたいだね、そのウルフカット」
「気が散る」太郎は気に喰わない様子で蚊を払う。「馬鹿にすんなっての」
蚊は血を吸い取ることもせず、ふらふらとどこかへ飛んでいった。太郎に潰されなかっただけ、マシだ。
「じゃあ、時間になったんで」一七時を目前に、ひょろっとした茶髪の一年坊主が、皆の前に出る。確か軽音部のハスキンのコピーバンドでベースを弾いている奴だ。「二人とも服脱いで前に出てきてくださいー」
桐生君がシャツや下着を脱ぐと、贅肉のない引き締まった身体が露わになる。一方の太郎はTシャツになると、襟首に指を掛けて、力任せに引っ張った。
Tシャツは、紙切れのように、あれよあれよという間に引き裂かれていく。
観客からは拍手や歓声が上がる。
姿を現したのは、鉄球のような肉の瘤で構成された西洋彫刻のような上半身だった。
「それでは二年三組、桐生大地さん」一年坊主は、マイクパフォーマンスのように口上を続け、桐生君に手を差し伸べる。「ボクシング部、ライトヘビー級、一七三センチ、六〇キロ。えー、県大会準優勝」
今度は太郎。
「二年五組、斎藤太郎さん。将棋部。一八三センチ、八二キロ。好きな棋士は、羽生善治です。……クソどうでもいい。よろしくどーぞ」
周りから、『金太郎、負けるな』とか『よっ! 力太郎』とか生暖かい声援が飛んでくる。
一年坊主はストップウォッチをポケットから取り出す。
太郎と桐生君は、向かい合って拳を構える。
桐生君は鋭い目つきだが、太郎はぼうっとした目つきのままだ。
「レディ」
全員が固唾を呑み、周囲は静まり返る。二人が主役で、後は脇役だ。
「ファイ!」