小説

『悟らずの筆』森江蘭(『徒然草』より『仁和寺なる法師』)

―良順、まだ、悟れぬか。

 振り向くと、そこには編み笠を目深にかぶり、墨染めの衣を着て錫杖を手にしたお坊様が一人。
 顔はしっかと見えませぬ。その声も、果たして本当に聞こえたのか、私の頭の中だけに聞こえたものなのか、もうわかりませんが。私には確かに。

 鬼の形相をした良托さまのぎらぎらと光る目が、笠の下に見えたのでございます―。

 私はその刹那に走り出しました。後ろから、しゃん、しゃん、という錫杖の音が追ってくるような気がして、恐ろしく、ただひたすら逃げ出したのでございます。
 また、私は―。
 逃げたのです。
 結局、私は何にも向き合うことができませんでした。良托さまに謝ることも、千種をあやめた己の罪にも。卑怯にも逃げて逃げて、ここまで来てしまいました。すべては我が身かわいさゆえ。畢竟、私は何一つ変わらないのです。あの地獄の門から逃げ出したときから。今回もまた、石清水八幡宮も詣でることなく、高良社と極楽寺のみを見て、逃げ帰ってきたのです。
 私を導いてくれる人生の先達でもあれば、もしかしたら変わっていたのかもしれません。いや、良托さまこそは、私が出会ったその先達でした。それを私は自ら、切り捨ててしまったのです。
 これからもまた、その悔いを胸に仁和寺で修行に励みましょう。

 良順が暇乞いをしたあと、隙間風の吹き込む庵で一人、兼好は筆を執った。それは、良順が土産にとくれた筆だった。紫檀の軸に螺鈿が施された筆である。筆はいつも使うものより、少しだけ重たく感じた。
 兼好は徒然に帳面に筆を遊ばせる。

 ―何事にも、先達はあらまほしきことなり。

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