小説

『悟らずの筆』森江蘭(『徒然草』より『仁和寺なる法師』)

「これは、良順殿。久しぶりですな。」
 墨染めの衣をまとった僧が、網代笠に手をかけて頭を下げる。ささ、と、こちらも僧形の男が、粗末な庵の中で良順と呼ばれた男を手招いた。
「兼好どの。ご無沙汰しておりましたな。実は、この間、石清水八幡宮に詣でてまいりましてな。」
 良順は一本の筆を兼好に手渡した。
「これは立派な筆でございますな。かたじけない。」
 兼好が顔を上げると、良順の目に涙が浮かんでいるのが見えた。
「いかがなされた、良順どの。」
「拙僧はやはり、弱い男にございます。」
 ごう、と木枯らしの音が庵の周りを包んでいた。私でよければ、伺いましょう、という兼好の言葉に、良順はぽろぽろと語り始めた。

 人が生きるというのは、実に業の深いものでございます。自分が生き残るためには、他人に何をしても良い。今も昔も、その業は変わりませぬ。人は所詮わが身が第一。
 あの日、私は雨の中を必死に逃げました。
 しかし、何から、逃げていたのでしょう。
―あの婆が悪いのだ。俺は何一つ、悪いことはしていない。生きるために、あの婆だって同じことをしていたではないか。俺が婆の服を奪ったところで、何の悪い道理があるものか。命まではとらなかったのだ、ありがたく思えばよかろう。また死人から髪の毛でも抜いて、服の一つも作ればよいのだ。なんなら死人の肉をくらって生きればよかろう。ああそうだ、俺は何一つ悪いことなどしていない。していない。
 ひどい雨でございました。私はその日、とある老婆の身ぐるみを剥いで、その着物を奪ったのでございます。足に追いすがる老婆を蹴り倒して、着物を奪って走りました。その老婆が何をしていたか、ここでは話しますまい。何があろうと、私のしたことは、良いことではございません。
 いや、老婆の身包みを剥いで奪ったことなど、その後私がしたことに比べてみれば、まだしも軽い罪でございました。
 雨の中を走って、歩いて、逃げに逃げました。途中、市で食べ物をひったくり、せせらぎにのどを潤して、とにかく、私は都の大路に入るあの門から逃げたかったのです。あの丹塗りの剥げ、半ば以上崩れかかった禍々しい地獄の門から。まるで方相氏に追われる追難の鬼のように、とにかく、逃げ出しました。都の南の果てから大路をまっすぐに北へ。そこからどれほど歩きましたでしょう。

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