小説

『悟らずの筆』森江蘭(『徒然草』より『仁和寺なる法師』)

 ぽそりとつぶやくと、筆を愛おしそうに手に取り、良托さまはうつむいてしまいました。そのときです。普段物静かな千種が声を強めていいました。
「私、良托さまの娘様を、探しに行く。」
「…千種。何を申す。どこにいるかも、手がかりも何もない。生きているかも死んでいるかもわからぬ。」
「手がかりなら、その筆が。」
「この筆一本で何がわかろう。千種、妙なことを考えるものではない。私はもういまさら、生死のわからぬ娘に会おうなどとは思わぬ。その気持ちはうれしいが、千種。おぬしは自分のことを大事に生きよ。」
 二人の間に入り、良托さまから筆を見せていただきました。桜の花びらの螺鈿細工が施された、見事な紫檀の筆でございましたが、そこに一つ刻印がございました。
「良托さま、この印は…」
 私は思わず言葉に詰まりました。
「これは、石清水八幡宮の社紋じゃ。娘は、石清水八幡宮に筆を納めておったと話しておった。」
 私は愕然としました。
 筆と女―
 俺はその女に―
 会っている。
 そのとき、私の顔は蒼ざめていたかもしれません。
 石清水八幡に行ってみると言ってきかない千種を、良托さまは引き止めておりましたが、千種の決意は固いようでした。身寄りのない千種を父親代わりに育ててくれたことへの恩返しと、千種は思ったのでございましょう。
 娘の行方などわかるはずもないと思いながらも、多少の物見遊山をさせようかくらいの気持ちで、結局良托さまは千種を八幡詣に行かせることとなりました。とはいえ、この乱れた世の中で、年頃の娘の一人旅はさすがに危なかろうと、私を同行させたのでございます。
 都の北のはずれのあの寺から、都の南にある石清水八幡まで、歩きに歩きました。娘の歩みに合わせましたので、途中、日も暮れてまいります。
 道中、私は気が気ではございませんでした。
 良托さまの娘御をかどわかし、とある貴族のもとに売り払ったのはこの私でございます。あれは、月の明るい夜のことでございました。おそらく、八幡宮へ筆を納めに行くところだったのでしょう。箱を抱えて宿坊や摂社末社の立ち並ぶ石清水八幡宮への参道を歩く娘の後を付け、隙を見て後ろから襲い掛かったのでございます。
 箱からばらばらと筆が落ち、螺鈿細工が月光を映じてきらきらと輝いておりました。ばたばたともがく娘に薬をかがせ、猿轡を噛ませて両手両足を縛りあげて、娘を連れ去りました。

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