小説

『悟らずの筆』森江蘭(『徒然草』より『仁和寺なる法師』)

 それほど長い間ではありませんでしたが、良托さまと千種と、私。三人で過ごす日々は、いつのまにか私の心をやわらかくしたように思いました。食うや食わずということに変わりはありませんが、良托さまや千種に必要とされて、水汲みだの、柴刈りだの、瑣末な雑用であったとしても、誰かのためにそれをこなす日々は、今にして思えば、幸せな日々だったのでしょう。
 そしていつしか、私は良托さまのもとにいた千種に、心を動かされていたのです。いつぞや他の女にしたように、この女を連れ出して、貴族にでも売ってしまおうと思っていましたが、ともにいるうちに、その美しさと、はかなげな命の裏にあった気丈さに、心惹かれていきました。
 まこと、身勝手なことにございます。

 そんな平穏な日が終わりを告げたのは、一本の筆のせいでございました。
 いや、それは正しくありません。すべては、私のせいでございます。
 寺も良托さまの身なりもそれは質素なものでしたが、筆はたいそうご立派なものでございました。それは、紫檀の軸に夜光貝の螺鈿細工で桜の花が施された筆で、良托さまに、ある夜、その筆のことを尋ねたことがありました。
「いつも大切にされておられますが、その筆には何かいわれでもございますか。」
「これは、私の亡き娘が作ってくれた筆でな。」
「作った、とは。娘様は筆作りの職人だったのですか。」
「さよう。女の身にしては珍しい職人だった。といっても、まだ見習いに毛が生えたようなものであったがな。」
 月明かりで針仕事をしていた千種も、いつの間にかその話を聞いておりました。
「今の千種と同じくらいの年だった。かどわかされた。鬼にな。もう何年前になるか。」
 ―鬼、まさか。
 私は良托さまに娘様の名を尋ねました。
「娘の名か、そんなものはとうに忘れたわい。ただ、千種、そなたによう似た、愛らしい娘だった。いまでは、その筆一本が、娘がいたことの唯一のよすがでな。」
 良托さまは千種のほうに目を向け、悲しげに吐き出します。
 あまりのことに、私の胸は早鐘を打っておりました。
「娘は、その後どこに連れ去られたとも知れぬ。どこぞで元気で生きておればと、そればかり願ってここまで生きてきた。いい加減、諦めればいいものを、まだまだ修行が足りぬなぁ。」
 ―執着こそ、仏の道では最も忌むべきものであるのにな。

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