小説

『悟らずの筆』森江蘭(『徒然草』より『仁和寺なる法師』)

 私はまた、逃げ出しました。石清水八幡宮へ続く参道へ背を向け、千種の死体に気が付いた誰かが探題を呼び、追っ手がかかる前に逃げました。
 逃げて逃げて逃げて、京の都を南から北へ。
 どれほど走ったでしょう。すでにお天道様が中天に高く上っておりました。私がそうしてたどり着き、逃げ込んだのが仁和寺でございます。
 仁和寺のお坊様がたは、私を暖かく迎えてくださりました。どんな咎人も、寺の山門をくぐった以上は探題や検非違使の捕り手に引き渡されることのない習わしでございますれば、私も今までこうして息をひそめて仏門に帰依してきたのでございます。
 千種をこの手にかけたあとの良托さまの行方は杳として知りませんでした。
 あれから、どれほどの月日が流れたことでしょう。
 千種と良托さまのことを忘れたことはございませんでしたが、私という卑怯な人間は、どこかであの事を忘れたがっていたようです。その気になれば、同じく仏門にある良托さまのことを調べることもできたのでしょうが、無意識のうちに、いや、それは言い訳ですね、きっと意識的に、良托さまの話を聞かぬようにしてきたのです。
 それが、先日のことでございます。石清水八幡宮に徳の高い僧がいると、仁和寺で話題となっておりました。
ご存知のように、石清水八幡宮は八幡神をまつる神社ではありますが、摂社末社には神宮寺も多くございますので、八幡宮に徳の高い僧がおられると人々の口の端にのぼっても不思議ではございません。
石清水八幡宮と僧侶。その組み合わせから私が勝手に良托さまのことを思い出したのでございます。私の罪のなせる業、石清水八幡宮に現れた高僧とはすなわち、千種を追う良托さまなのではないか、そんな思いに憑りつかれたのです。
私は仁和寺に流れるうわさを聞くにつけ、もしかすると良托さまなのではという思いを大きくしておりました。まだご存命であったのか。もし、ご存命であればすべてを話し、たとえ赦されることはないにせよ、良托さまにわびることもかなうのではないか。
 いや、どこかで赦されたいと思う気持ちがあったのに相違はありません。
 それ以前に、そもそも、その高僧が良托さまであるのかどうか、それさえ定かではございません。
 折も折、最近の石清水八幡宮参詣の流行で、私の周りにも参詣に行ってきたという者がぽつぽつとおり、話を聞いてみましたが、そのような高僧には会うことがなかったという者ばかりでございました。
 ―自分の目で、確かめなくてはならない。そして、それがまこと良托さまであるのならば、どうなろうともすべてを話して謝ろう。
 それで、私は石清水八幡宮に旅立ったのです。

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