小説

『悟らずの筆』森江蘭(『徒然草』より『仁和寺なる法師』)

 あの女に出会ったのは、私が逃げた先のとある寺でございます。
 そこは都の北のはずれ。数多の死人を朽ちるがままにして弔う場所。そこにある寺もまた、荒れ果てておりました。とりあえず、雨風をしのげればよかろうと、破れた障子のから堂の中を覗いてみると、やせこけたお坊様が一人、低くぼそぼそとつぶやくように読経しておりました。
―くそっ、坊主がいやがったか。しばらくここに厄介になれるかと思ったが、邪魔だな。
 そんなことを思ったときです。突然、
「そこな御方。何用かな。」
 と、そのお坊様がこちらを振り返ることもせず、私に声をかけたのです。おどろいて、しばらく胸がつぶつぶしておりました。
「雨も強うござろう。あまり濡れては難儀。どうぞ中へ入られよ。」
 静かな声ではございましたが、どうにも有無を言わさぬ力のある声でございました。私は恐る恐るお堂に足を踏み入れました。
 雨風をしのげるとはいえ、あちらこちらに雨漏りがあり、床も下手をすれば踏み抜いてしまいそうなお堂でございます。お坊様はその中で、阿弥陀仏の像を前に端座して読経を続けておいででした。
―何もなさそうだな。腹の足しになるものも、めしの種になりそうなものも。せいぜいが、あの仏像くらいか。この坊主を張り倒してあの仏像を奪っていくか。ついでに、身包みを剥いでやろうか。
「腹が減りなさったか。ならば、こちらへおいでなされ。」
 またもや私の心を見透かすように声をかけると、お坊様はすっと立ち上がり、お堂の奥にある引き戸をがたがたと開けました。
「さ、こちらへ。」
 そのとき、お坊様が振り向きました。なんなんだ、この坊主。そう思いましたが、なぜだか言葉が出てきません。私はただただ、黙ってお坊様の後を付いていきました。そこは、先ほどの荒れたお堂とは違い、質素ではありましたが整ったお部屋でございました。見ると、敷かれた茣蓙に一人、若い娘が眠っております。
「その娘は、千草と申し、拙僧の縁者にござる。拙僧が引き取り、拙僧の身の回りの世話などしてくれておる。ただ、ここ最近病で伏せがちで、見苦しいところをお目にかけるが、どうぞお気になさいますな。」
 私は思わず頬が緩みました。年のころは、十七、八といったところでしょうか。少し熱があるのか、白い頬にうっすらと赤みが差しております。羽衣を置き忘れた天女という話を聞いたことがありましたが、その天女はこのようなものだったかと、しばし見とれておりました。
 ごくり、とつばを飲みました。

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