小説

『悟らずの筆』森江蘭(『徒然草』より『仁和寺なる法師』)

 千種をこの手にかけ、良托さまの元を逐電してからもうどれほど経つでしょうか。この手に刻まれた皺も、幾たび剃れども坊主頭に点々と生える白髪も、あのときにはまったく縁のないものでございました。御室の桜ももう何度見たことでございましょう。咲いては散る淡い桜の花びらとともに、いっそこの身も儚くなってしまえばと思ったこともひとたびならず。
 御堂に籠もり、小さな如来仏の前でいくら真言を唱えようとも、私にはあのときの千種の顔と、良托さまの娘御の顔しか浮かびませんでした。かっと目を開くと、如来仏の柔和な顔が、鬼の形相になった良托さまの顔に見えるのでございます。そのたびに、私は必至に真言をとなえ、己を責め千種の菩提を祈り、ただひたすら良托さまに詫びておりましたが、如来仏はその鬼の形相を緩めたことは一度もありませんでした。
 私は、その如来の仏像を懐に抱き、石清水八幡宮に向かいました。この御室仁和寺から、都の南にある石清水八幡までは確かに遠く、一歩一歩の足取りは重いものでございました。千種をあやめたあの日、息もつかぬほど走って逃げた道を、私は逆にたどりながら、一歩一歩踏みしめて石清水八幡へと向かいました。
途中で一夜を明かし、石清水八幡宮の参道に着いたとき、すでにお天道様は天高く上っておりました。石清水八幡宮のある男山山麓に並ぶ摂社末社のうち、豪奢な高良神社を詣で、途中に寄った小物屋で筆を買い、極楽寺に向かったときです。
 見覚えのある景色に私の足は止まりました。見覚えがある、というのは正確ではないかもしれません。あの夜、私は無我夢中で千種であったものから逃れようとしておりましたので、周りの景色などとんと覚えてはいないはずでした。ところが、人の心とは不思議なもので、その場所に立ったとたんにあの夜のことが、目の前によみがえってきたのです。
 冴え冴えした冷たい月明かり。千種の吐息。振り向いた千種の仔犬のような目。手に伝わる脈打つ千種の首筋。あがく千種。だらりと力が抜けて、崩れた千種。
 そして―。
 逃げ出した、私。
 目の前にそのときの映像がぐるぐると浮かび、周りの景色がさざなみののようにゆれているように思いました。
 そのときです。
 遠くから、しゃん、しゃん、と錫杖の音がしたのです。
 しゃん、しゃん、しゃん。
 これやこの行くも帰るも分かれては―
 しゃん、しゃん。
 これはこの世のことならず―
 しゃん。

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