小説

『その恋がブージャムだったなら』紗々井十代(『スナーク狩り』)

 「そういえば先輩。彼女さんと同棲するらしいじゃないですか」
 どうやらビルくんも僕と同じような状況らしく、喋りながらエクセルに「あ」とか「え」とか打つのが見える。
 「知り合ってどれくらいなんですか」
 「大学生の時からだよ」
 「長いんですね」
 彼は自分事のように顔を綻ばせる。
 「それでやっぱり結婚するんですか」
 僕は肩をすくめる。そんな先のことは分からない。
 「色々あるんだよ」
 それだけ答えた。
 例えば、僕が仕事を辞めようと考えている、なんてこの場で言い出したら、ビルくんはどんな顔をするだろう。
 きっと飛び上がって驚くだろうか。あるいは自分の業務にしわ寄せが来るのを嫌がるだろうか。
 彼は人懐っこく、日々追われる熾烈な業務に愚痴をこぼしながらも、頑張ってくれる気丈な青年だ。入社時期こそ一年違うけど、業務内容は僕と大差ない。
 「そういうビルくんは彼女いないの」
 携帯で誰かと連絡を取り合う彼に、そう訊ねる。
 「聞きたいですか」
 ビルくんは喋りたくてたまらない、という顔でウキウキ言う。
 「別に聞きたくないよ」
わざとツンとして、僕はパソコンに向き直った。
 「後輩に意地悪しないでくださいよ」
 「だってその態度が答えみたいなものじゃないか」
 拗ねるビルくんを手で追い払い、また業務を再開した。きっと彼に喋らせたら、今夜の仕事は延々とのろけ話がBGMになる予感があった。
 「落ち着いた頃聞かせてね。今度お酒でも飲みに行こうよ」
 ビルくんはぶつくさ言ったけど、そういうことで手打ちとした。夜は長い。
 ふと、
 「もしもその恋がブージャムだったなら、あなたはきっと消え失せてしまう」
 たしかに隣で。ビルくんがそう言うのが聞こえた。
 「ビルくん。今なんて言った?」
 「何も言ってませんよ」
 「言ったよ。ブージャムがなんだって」
 しかしいくら訊ねても彼は、知らない、先輩が疲れてるの一点張りなのだ。
 何かがおかしいと、僕は気づき始めた。

 ※

 最初に訊ねた時、たしかにビルくんはブージャムを知らないと言った。しかしそれにも関わらず、口にするのだ。例の占い師と一字一句違わず。

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