小説

『その恋がブージャムだったなら』紗々井十代(『スナーク狩り』)

 僕は天井を見ている。壁を見ている。眠ることなくずっと眺めている。
 そうするしかなかった。
 一体なぜこんなことになってしまったのだろう。
 もう一度あの占い屋を訊ねれば、何かが変わるかもしれないが、外に出た瞬間。電車に乗る瞬間。人の話し声が耳に入ってきて、もしそれがあの言葉だったらと思うと、恐ろしくて敵わなかった。
 何か滅茶苦茶に喚きたいような、泣きたいような衝動に毎日駆られる。だけど自分の発したはずの悲鳴がアレだった日には、喉をつぶしてしまうだろう。アレはどこからやってくるのか分からない。
 僕は何もできない。
 そしてドアのノックが鳴った。
 幸いにしてそれは、紛れもなくドアのノックの音だった。違う言葉には聞こえない。
 慎重にドア穴から外を覗く。
 丸く切り取られた世界は真っ赤な夕暮れで、それを背景にアリスが立っていた。
 久しぶりに目にした彼女だった。
 「ねえヨシくん、アリスだよ。大丈夫? 生きてる?」
 僕は何も言えず、ただドアにもたれかかる。
 気配を察したのか、アリスはドア越しに喋った。
 「ヨシくんのこと傷つけたかな。それとも引っ越しが嫌だったとか。もしかして私のこと嫌いになった?」
 アリスの声はちゃんとアリスの声で、アリスの言葉はアリスの言葉だった。
 「ちゃんと言ってくれないと分からないよ。お願いだから。ちゃんと話そう」
 少し涙ぐんでいたと思う。湿っぽいくぐもった、喧嘩した時に聞くアリスの声。
 もう一度ドア穴を覗く。赤い丸の真ん中で彼女は一人、堪えていた。普段はまだ仕事をしているはずのアリスが、僕の部屋のドアの前で。
 僕は迷っていた。ドアを開けるべきかどうか。開けたとして、何を話すべきかなのか。
 だが怖かった。彼女の口からだけは、どうか例の文句を聞きたくなかった。
 「私がヨシくんの家の合い鍵を持ってるのは知ってるでしょ」
 そう、アリスは合鍵を持っている。だけど入ってこない。つまり、僕が開くのを待っているのだ。心も扉も。全部開かれるのを。
 「お願い。ちゃんと話そう」
 僕は。
 玄関のドアを開けてしまった。
 真っ赤な夕暮れ。陽が沈む空気。風の音。潤んだアリスの瞳。震える手足。きめ細やかな香水の匂い。肌の柔らかさ。体温。吐息。
 一気に流れ込んできた。
 それらは全部すっきりと、別物ではなく等身大のそれ自身で、何一つ恐れることなんてなかった。
 僕が恐れたのは、何か漠然とした不安が形になったものだったのだと、そう思えた。
 だってこんなにも鮮やかで、優しい実感が、僕を包むのだ。
 「僕は君のことをちっとも嫌いじゃない。愛しているに決まっている」
 抱きしめて、頬をぴったり重ねてそう言った。
 彼女は喉を震わせながら答えた。

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