小説

『その恋がブージャムだったなら』紗々井十代(『スナーク狩り』)

 最近考えたのが、引っ越しが落ち着いたら今度こそ会社を辞めよう、ということだった。今の段階から転職サイトは覗き始めている。
 まだやりたいことがあるわけではない。けれど、新居での新生活。全てを一新するにはいい機会だ。
 きっとアリスも、そういう目論見があって引っ越しを提案したのだと思う。僕の背中を押すために。
 二人でいれば不安定な境遇でも心強い。ついでに公共料金は二分の一だ。
 そんなこれからを想うと、自然と元気が出てくる。何かを変えるにはエネルギーがいるけど、そのエネルギーが湧く泉もまた何かを変えることなのだ。
 丁度デザインから新しいポスターのレイアウトが送られてきたので目を通す。
 「――」
 その瞬間、僕の元気は吹き飛んで、悲鳴を上げていた。
 そのポスターは地下鉄内に張り出すためのもので、英会話教室の宣伝だった。黄色地に緑色のロゴが入り、中央に構える女優の写真も清楚で好ましい。
 しかしこのポスターは全部おかしい。だって、宣伝文句も電話番号も、語呂合わせも営業時間も、みんな残らず書き換わっているのだ。
 「もしもその恋がブージャムだったなら、あなたはきっと消え失せてしまう」
 必要情報の代わりに、ポスターには一面びっしりとその言葉が羅列されていた。
 当然、営業の指示でも僕の指示でもない。
 「どうしたんですか先輩」
 悲鳴を聞いたビルくんが慌てて僕の目線を辿る。
 「ビルくん、まただ! またこの言葉だ! ブージャムって一体なんなんだ!」
 思わず頭を抱えて取り乱してしまう。こんなことはもうたくさんだった。
 だけどビルくんの反応は、心底僕を失望させた。
 「先輩、またってなんですか。このポスターのどこが間違ってるんですか」
 ゾッとして液晶画面を見なおす。そこにはやはり、例の文句がびっしりと書き込まれたポスターのレイアウトが映っている。
 「君は『もしもその恋がブージャムだったなら、あなたはきっと消え失せてしまう』と書かれているのが、ちっともおかしくないって言うのか」
 「何を言ってるんですか」
 「読めばわかるだろ。これはおかしい」
 最早金切り声に近い僕の抗議は、彼の哀れみの眼差しに溶かされた。
 「先輩。よっぽどの疲れなんですね」
 呆然と、僕は今日限りで会社を辞めることに決めた。

 ※

 まず家から出るのを止めた。アリスと連絡を取るのを止めた。読んでいる本の文字が書き換わってから、文字を目にするのを止めた。ジャニス・ジョプリンの口にする歌詞が違う言葉になって、音楽を聴くのを止めた。夢にあの言葉が出てきて眠るのを止めた。

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