小説

『その恋がブージャムだったなら』紗々井十代(『スナーク狩り』)

 伸びをして言うと、隣で後輩のビルくんが目を丸くした。
 「随分と早いですね」
 「諦めだよ」
 本当は今日中に片づけたい仕事があった。だけど駄目だった。デザインからのポスターのレイアウトが上がってこないのだ。と言うのも、担当も帰ってしまったらしい。
 午後七時。
 「先方から校正のオーケーが降りてきません」
 帰る前にデザインの彼がそう言ったので、悪いのは先方だと分かっているのだが、つい自分の前工程であるデザインの方を恨んでしまう。
 「ビルくんも早く諦めて帰った方が良いよ」
 「残念ながら希望を捨てきれない状況にあるので」
 彼の物言いに苦笑しつつ、職場を後にした。
 こういうところに、やるせなさを覚える。自分がいかに頑張ったところで、結局は他人のやったやらないに左右されてしまう。
 挙句、他人のやらないの帳尻を合わせるのが自分だったりしてたまらない。ひょっとするとこの業界に限った話でなく、どこも同じなのかもしれないが、これも会社を辞めたい原因の一つだったりする。
 漠然とやるせなさを、しかしどうであれ早く帰れる喜びを抱えて電車を待っていた。
 「……ージャムだったなら、あなたきっと消え―ー」
 ふと、女子高生のそんな会話が聞こえた気がしたが、丁度到着した山手線にかき消された。

 ※

 「ねえ。そろそろ引っ越そうよ」
 アリスが言った。
 「一緒の家に住むの。二階建てで明るい照明の。庭には薔薇の花を植えて、小さなテーブルも置いてさ。たまにそこで一緒にワインを飲んで。それから白と黒の猫を飼う。素敵じゃない?」
 「それは素敵だね」
 その休日、僕はインターネットでニュースを見ていて、彼女はカレンダーを眺めていた。外には雨が降っている。
 「だけど流石に一戸建ては無理かな」
 僕が言うと、アリスはふふふ、と笑った。
 「冗談だけど。でも夢があるっていいよね」
 「夢見がちな少女ってわけ?」
 「ヨシくんだってそうでしょ」
 たしかに仕事を辞めたがっている僕だって似たようなものかもしれない。しかし僕には夢があるわけでなく、やりたいことってなんなのか、それすら分かっていない青い少年なのだ。
 ところで、とアリスは続ける。
 「引っ越そうっていうのは冗談じゃないよ」
 顔を上げると、彼女は真剣にこっちを見ていた。

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