小説

『その恋がブージャムだったなら』紗々井十代(『スナーク狩り』)

 そうなると彼女が占われるあいだ暇なので、つい魔が差して僕も占い屋を訪れてしまったというわけだった。
 魔が差して。そうとしか言いようがなかった。ちっとも興味のないスピリチュアルなそれなのに、その古びた洋館(占いと書かれた看板をぶら下げた、食べ放題の隣にある四角い木造建築)には魔性があった。僕はそれを見た途端、占ってもらおうという衝動を抑えることができなかったのだから。
 しかし結局のところ、魔が差しただけなのだ。
 彼女が言うように、「悩みから解決策まで、タロット一つでぴたりと」当ててくれればいいだろうが、僕が聞いたのは支離滅裂な散文詩の類だ。
 もしもその恋がブージャムだったなら、あなたはきっと消え失せてしまう。
 「ブージャム……」
 一人ごちると、アリスが首を傾げる。
 「今ピータンって言った?」
 「言ってないよ」
 「そう。ピータン食べてみたいな」
 彼女がそう言うので、僕たちは黒ずんだアヒルの卵を食べる。履きつぶした靴下で丸めた宇宙のようなそれに悶絶する頃、占いのことなんてすっかり忘れた。

 ※

 少なからず僕には悩みはある。
 地方から上京して今年で社会人生活三年目。発注通りの品を納品しないクライアントとか、働かないのに口だけは達者な職場の老人とか。もっぱら僕を悩ませる。
 だけどそんなのは些細なことで、日常のスパイスなのだ。本当の悩みは曇天のように鬱屈と頭上に立ち込めて、僕の頭上はいつ降り出してもおかしくない。
 広告業界の事務方で途方もない業務に追われる僕は、真剣に会社を辞めたい念に駆られていた。
 と言うのも、これが自分の本当にやりたいことなのか。このままなんとなく日々の激務に追われ続けて、気付いたら歳を取っていて、本当にそれでいいのか。と、突き詰めてしまえば、他愛もない若さ故の衝動なのだが、それでもこれは曇天だった。少なくとも僕にとって。
 「ヨシ君のやりたいことをやったら? 私も力になるし大丈夫だよ」
 アリスはそう言う。
 大学二年で知り合って、三年の時に付き合って、一緒に東京にやってきて。今は栄養士で気丈に頑張っている。同棲こそしてないものの、互いの両親には挨拶済みで。結婚すら視野に入れている、かわいいアリス。
 そんな彼女の手前、会社を辞めるだなんて激流に逆らう鯉のようなものだ。登り続けて龍にでもなれば、雲を突き抜けて幸せになれるかもしれないが。
 しかし問題は、僕にはやりたいことなんて一つも無いということなのだ。

 「今日はもう帰ろうかな」

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