小説

『あひるとたまご』或頁生【「20」にまつわる物語】

 放課後他のクラスメートが校庭でボール遊びに興じる中、ダッシュで帰宅から彼女の自転車を駆り、池田の表札が掲げられたままの門柱の中に、実は初めて足を踏み入れてみた。
 人の気配は無く全て消灯状態の建物、その2階の窓のガラス越しに、彼女の学習机だろうか、地球儀と教科書らしいシルエットが伺えた。
 幸い他の見知らぬ大人達から咎められず、その場を離れて小さく一安心したその直後、下校時刻から帰路に着いた木下一派の姿に、大慌てでハンドルを切って迂回から間一髪。
 何とか無事に帰宅するも、正晃にはこれが果たして現実なのか、何が生じているのかが察し切れず、勉強机の代わりに当てがってもらっていた文机の前に正座から、暫し動けずにいた。
「僕も彼女の事、好きだったのかな」
 口角が自然に少しだけ上がった口元から『あひるちゃん』のニックネームがお似合いだった彼女。
 隣の部屋から夕食を食べるようにと、声を掛けようとしたおじいちゃんを、おばあちゃんがそっと遮っていた。

 あの日以来今日まで、果たして何十回あるいは何百回、当時のあの数日間の回想を重ねた事だろうか、そしてそんな中でもしかすれば、無意識に自身に都合良く記憶が改ざんされてはいないだろうか。
 とりわけ記憶の中の洋子ちゃんの面影を携えた見知らぬ女の子や、自転車に乗る練習中の子供の姿を目にする度、半ば条件反射的な脳内作業と化してしまっていた。
 祖父母に高校に進学させてもらった後、生まれ育った町を離れる際に、いつか返却するからと管理をお願いしていた彼女の自転車も、老朽化と区画整理で取り壊された長屋街と共に行方不明に。
 それでも数枚のスナップ写真だけは、正晃の手元に大切に保管され続けていた。
「いつか返せなくなった事実をお詫びしなきゃ」
 あの日自転車に乗れるようになった瞬間から、正晃の小学校生活は大きく変化を見せていた。
 大きな自信と努力する過程の充実感に気づいた正晃は、気づけばガキ大将の木下一派も一目置く、文武両道明晰の学年のヒーロー的存在となるも、決して驕る事の無い少年へと成長していた。

 
「ブログ始めてみろよ。世界中の人が見る可能性があるから、もしかすれば彼女の目に止まるかも知れないぞ」
 遡る事十数年前、そんな思い出話を酒席で、高校時代からの腐れ縁の悪友に語った際に、返って来た一言がこれだった。
 未だスマホ普及前の旧式ガラケーとパソコンが最先端通信機器だった一昔前、基本アナログ人間だった正晃からすれば気乗り薄な提案も、
「離れてる奥さんや子供への近況報告にもなるぞ。アドレスだけ教えておけば、見たい時にアクセスしてくれるだろうし」
 当時は自事業に失敗から、弁護士も声を揃えて自己破産を薦める厳しい状況下、妻子にリスクが及んではならぬと籍を違え、債務整理との格闘の真っ最中だった正晃にとって、これはナイスな助言だった。

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