木下の超弩級やきもちビームが教室内を乱舞する中、意を決した正晃は、自転車の件を洋子に確かめていた。
自分が自転車に乗れない事実を知られているのは、男としてのプライドを切り刻むに十分過ぎる現実も、流石に放置は出来なかった。
「また私が乗りたい時には返してもらうから。その時は家まで乗って来てね」
周囲に聴こえては一大事と、一生懸命声のトーンを落とすように懇願するばかりの正晃に、親分の命令に渋々従う一派からのシュプレヒコールが降り注いだ。
「女の中に男が1人っ!」
密かな早朝練習が、早速翌朝から始まった。
冬至へと向かう宵闇の中、新聞配達と牛乳配達の自転車以外の往来が見当たらぬ、碁盤状が微妙に曲がった細い長屋街は、玄関を開ければ数十センチで荒れた舗装未満の道路。
アスファルトが穴ぼこ状態から小石が散乱する、自転車の練習には不向きこの上ない、軽自動車のすれ違いすら困難な道幅に加え、後方を支えてくれる者もいない、たった1人の試行錯誤。
誰もが経験する横転プラス、道路の穴に前輪を突っ込んでの前転までオプションで繰り返しつつ、突然両足でペダルを踏んで回せたのは、冬本番の寒さに包まれた日曜朝だった。
その日ばかりは1分1秒でも長く自転車に跨っていたくて、食事時間も勿体無く、まして友達に見つかるリスクも忘れ、ひたすら自宅前の道路をグルグルと走り回り続けていた。
「明日洋子ちゃんにそっと報告しなきゃ。だけど自転車返さなきゃならないし、もうちょっと借りていたいな」
大好きなおじいちゃんとおばあちゃんが、自転車代を工面してくれている事など勿論気づかず、正晃は大き過ぎる達成感に包まれる中、自転車返却なる残念な難題への対応に窮し始めていた。
洋子の欠席が3日目を数えた水曜日の教室内では、妙な囁きが広がり始めていた。
「池田さんのお屋敷がもぬけの殻」
通常の引越しとは何かが違う、下手に話題に触れてはいけない、子供心には俄に理解し辛くもそんな雰囲気が漂う中、次第に耳にしたくない大人の世界の単語までもが飛び交い始めた。
「夜逃げ」
漠然と何を意味するのか察せられるも、周囲の大人達から叱られそうな空気感の中、誰もが無口になり始めていた。
中でもガキ大将の木下の元気の無さは、普段散々虐められ続けていた正晃の目にも、流石に可哀想と映るばかり。
「自分で確かめるしかない」