小説

『あひるとたまご』或頁生【「20」にまつわる物語】

 後の雑学知識で照れ隠しと誤魔化しを試みてみても、もしかすれば人生の中で最大級の動悸急上昇だったに違いなかった。
 経年劣化が顕著な木製の引き戸前に鎮座していたのは、20の文字がレリーフ上にタイヤに浮き上がる、女の子向きのまだ新しい自転車。
 それより何より正晃の心臓の鼓動をドラムロール級とさせたのが、前輪の泥除けに達筆に刻まれていた、持ち主の住所と名前だった。

「洋子ちゃんの自転車!?」
 狭く荒っぽい長屋街から少し外れて位置する、玄関には門柱プラス瓦葺とは違う2階建て洋風建築の彼女の家には、何と側面にも窓が付いていると、悪ガキ仲間の話題独占の豪華さを誇っていた。
 それは漫画動画のヒロインの邸宅みたく、彼女の家で開催されるお誕生会に招かれる事が、その他大勢にとって何よりのステータスだった。
 お声掛けの対象にも引っ掛からぬ哀しき男子児童達は、そんなお屋敷の周囲を、愛車の電飾ウインカー付きのサイクリング車でグルグル走り回るばかり。
 とりわけ第二次成長期の入口のこの時期、学年のマドンナと彼女への近づき方すら知らぬ洟垂れ少年達と彼女との距離感は、生活レベルのみならず、全ての面で大き過ぎる開きが否めなかった。

 そんな雲の上のお嬢様の愛車が間近という、信じられぬ現実を横目で幾度も確かめつつ、大慌てで玄関を駆け上がり、舌を噛みそうになりつつ訊ねてみれば、
「池田さんのお母様からお申し出いただいたのよ。よかったら自転車に乗る練習にどうぞって。正晃が自転車に乗れなかった事に気づいてあげられなくって、おばあちゃんはお母さん役失格やね」
 申し訳無さそうな説明が、果たして何を語っているのか俄には理解出来ず、それより正晃の意識は全く別の方向に集中していた。

「これを木下達に見つかったら、それこそ大変な事になる」
 洋子ちゃんが好き過ぎるも想いが叶う可能性はゼロの、ガキ大将の木下とその一派にとって、この自転車は見過ごせぬアイテムの筆頭に違い無かった。
「おばあちゃんっ。こ、これ、返せないかな」
「何言ってるの。せっかくの親切だし、それより少しでも早く乗れるようになって、お母様の親切にお応えしないとアカンよ」
 哀しいかなおばあちゃんには、思春期の入口で戸惑う少年の複雑な事情は理解してもらえないらしく、大急ぎで狭い玄関内に一生懸命隠そうとするも、不慣れで思うように操れず四苦八苦するばかりだった。

 
「あーっ!尾崎が池田と話してるゥ!」

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