小説

『飲み込んだ涙のゆくすえ』間詰ちひろ(『浦島太郎』)

「気がついた?」
 どこからか、声が聞こえた。
 史郎はびくりと肩を動かした。誰だか分からないけれど、引きずり込まれた感触は残っている。……もしかして、とんでもない場所に足を踏み入れてしまったのかも、と思いはじめていたからだった。
「そんなに、怯えなくても大丈夫よ」
 史郎の頭の中なんてお見通しだとでも言わんばかりに、コロコロと高い声で笑った。ようやく目の調子が戻ってきたらしく、史郎はその声の主を見た。
「あの、ここは、どこですか?」
 史郎は、目の前にいる女の人に質問した。二十代くらい、だろうか? 若く見えるけれど、はっきりとは分からない。赤い着物を身に付けていて、色白の肌が気味悪く見えるほどだった。陶器のように白い肌とおかっぱの髪型をしていたせいか、おばあちゃん家に飾られている古い日本人形を思い出させた。
「ここは、甕のなか。入ってきたの、覚えてるでしょう?」
 そう言って、その女は、その場に正座した。貴女も座りなさいよ、と史郎に向かって指で指図した。
「あの、なんのために、俺はここに来たんですかね?」
 自分が質問している事柄が、混乱しているように思いながらも、史郎は女に訊ねた。すると、女は小さく頷いた。
「だいたいみんな、ここに来る意味なんて分からないものだよ。貴女は鍵を受け取ったから、ここにきた。それだけのこと。それ以上はなにも、ないよ」
「え、でも……。鍵を受け取る資格、みたいなものはあるんじゃないんですか?」
 史郎は眉間にしわを寄せながら、女に質問した。自分でいくら考えても分からない。聞けるんなら、とことん聞いてやろうじゃないかと思った。
「資格、ねえ……」
 女はガラス細工のように繊細なひとさし指をほっぺたに当て、少し斜め上を向いて考え込み、黙ってしまった。
「すみません。すべてに答えがある、と思わない方が良いんですよね、たぶん」
 史郎は、黙り込んでしまった女に、そういって、できるかぎり会話を続けてもらいたかった。
「ところで、ここから、戻ることってできるんですか?」
 史郎は、黙り込んでいる女に、新しい質問を投げかけた。この不思議な場所に、ずっと居る訳にもいかないのだ。……いや、戻ったところで、なにか特別なことがある訳でもないけれど、叔父さん達に心配をかける訳にもいかないのだ。すると、女はほっぺたに当てた指を下ろして、史郎の目をじっと見た。
「あなた、戻りたいの?」

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