小説

『飲み込んだ涙のゆくすえ』間詰ちひろ(『浦島太郎』)

 史郎を見つめる、その女の目には、なにひとつ感情が込められていなかった。史郎はすこしだけ、怖くなった。
「いや、だって。ここに来た理由とか、資格とかは考えないとしてもですよ。もとに居た場所に戻りたいって考えるのは、おかしなことじゃないと思うけど……」
 史郎は、少し慌てた口調でそう言った。
「あ! それに! 多分、俺のおばちゃんも、ここに来たことがあると思うんです。うーんと、十五年くらいまえかなあ……。でも、戻ってきてたし」
 女はつと瞬きして、ふうん、と小さく言った。
「確かに、貴女の前の鍵の持ち主は、何度かここに来てたわねえ」
 史郎は、ようやく女と共通の話題ができたことに、少しだけホッとした。あまりにも会話が続かないし、少しずつ、この場所に留まっていることが怖くなってしまっていた。目が慣れるまでは気がつかなかったけれど、辺り一面には、きらきらと輝く雪の結晶のようなものが、散らばっていた。それらはひとつずつが光を放っていて、じっと見ているとまぶしく感じられるほどだった。それすらも、初めはキレイだと思えたけれど、だんだん不気味に感じはじめていた。
「だから、俺も、帰れると思うんですけど……。帰りかたとか、教えてもらえないですか?」史郎はおずおずと、女に訊ねてみた。
「まあ、そうね。戻れないこともないのよ」そういって、女は不躾なほどにじろじろと史郎を見た。だけど、女の目にはやはり感情は込められていなかった。
「あなた、結晶を持ってるのね。小さいから気付かなかった」
 そう言うと女は史郎の胸に手を当てた。
「ちょっと、なんですか?」突然体に触れられて、史郎は、どきっとした。けれど服の上からでも感じ取れるほど、その触れられた女の手はあまりにも冷たかった。氷のような冷たさに、史郎はぞっとして身動きが取れなかった。
「はい、これ」
 女は、手のひらを史郎に見せた。そこには、こんぺいとうのような形をした半透明の小さな結晶が乗っていた。それは、この辺り一面に散らばっている結晶と同じように見えた。
「これは、貴女の結晶だから。なくさないようにね」
 そういって、女は、着物の袂をごそごそと探り、小さな桐の箱を取り出し、その箱の中に「史郎の結晶」といったものを入れて、蓋を閉めた。
「はい」そういって、女は史郎の手に、その箱を握らせた。女の手は、やはりゾッとするほど冷たくて、箱を渡された手は凍えてしまいそうだった。

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