小説

『ビヨンの妻』霧赤忍(『ヴィヨンの妻』)

「ケケケケケケケケ」

 蓮太郎のいつにもまして、アホな笑い声が家中に響き渡った。
 あまりにも強烈な笑い声に私はハッと我に返った。
「あの、大谷さんのご主人ですよね? 以前に刺し盛、万引きしようとしたの?」
「うん……」
「あの刺し盛、持って帰ってないでしょ。実はあれ、賞味期限もあるしで、俺が食っちゃいました! すいませんでした! それをずっと言いたくて」
 後藤君は刺し盛の件を伝えると、スッキリした表情でお茶を一気飲みして帰っていった。
 私は後藤君を見送ると居間で蓮太郎を膝に乗せ考えに耽った。
 振られたような気分だ。勝手に告白と勘違いしていたからだろう。恥ずかしい……たが幸いにも思い違いは露呈していない。後藤君とはこれまで通り接することができるだろう。
 ちゃぶ台に目をやると『ヴィヨンの妻』の本があった。私はこの本を購入して三十回以上読んでいる。少しでも穰一の役に立てばと読みこんだ。
 小説を再現するため『ヴィヨンの妻』の話し方や感性を真似ようと努力した。私が蓮太郎を坊やと心の中で呼んでいたことは私の黒歴史になるだろう。『椿屋のさっちゃん』になれただろうか、否『椿丸の美人ちゃん』と呼ばれている。気分は悪くない、むしろいい。
 穰一のアグレッシブさで近い状況が再現できた部分もある。穰一の話し方に変化はなかったが。一人称代名詞を僕といい、哲学者じみた話し方をしてほしいと思ったこともある。私は自分が思う以上に小説に入りこんでいたのだろう。三カ月弱、私は私ではなかったような気がする。そうであれば『ヴィヨンの妻』は人を変えうる力のある不思議な小説だ。ただ小説通りにはいかなかったけど。
 はたして穰一に小説は書けるのだろうか。いい感じで傑作が書けていると言っていたが。なんだかすごく会いたい。
「ただいまー」
 二日ぶりに帰ってきた。私は急いで玄関に向かう。外はすっかり暗くなっているが、穰一の目には神々しいほどの光が感じられる。
「おかえりー!」
「マジ朗報。小説完成した。マジで最強レベル」
「お! 見せてよー」
 たった二日ぶりだけど、久しぶりに穰一を見たような気がして嬉しくなった。
「早く入んなって。ほらほら」
 お茶を入れなおして三人でちゃぶ台を囲む。古くて今にも壊れそうな、あばら家だけど、三人でお茶をすすれるだけで、すごく幸せな気分になれる。

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