小説

『ビヨンの妻』霧赤忍(『ヴィヨンの妻』)

「幸子ちゃん、わかる? 私。大谷優子(ゆうこ)です。親戚の」
「あ、ああ! ご無沙汰しております」
「久しぶり。元気そうでよかった。それで悪いんだけど井上さんという方を呼んでほしいんだけど」
 井上さんに伝えると事務所で話をすることになり、三十分くらいで夫と優子さんが事務所から出てきてスーパーを後にされました。その日の勤務終了後、事務所で井上さんから声をかけられました。
「おつかれ! 初日で疲れたでしょ。あ、そうそう。お金返してもらったから。それと言ってなかったけど昨日ご主人から店に電話があって、さっちゃんは明日から働きますよね? って」
「そうでしたか……」
「あとね、本当は三十代の女性を連れてきたかったけど、普通のナンパより難しそうだから、九州の親戚の家に行って頼んだと言っていたかな。これ、どういう意味なの? ご主人、相当変わってるね」
「マダムが立て替えるシーンなんで、どうしても女性が必要だったのかと」
 私は井上さんと談笑してからスーパーを出ると、坊やを幼稚園に迎えに行き家に帰りました。久しぶりの労働でしたが、前職ではお客さんと直接かかわる機会がなかったので新鮮な気持ちで励むことができ、最近のモヤモヤした心にスーと神風が吹いたようでした。その日も夫は帰ってきませんでした。小説の再現を考え私も連絡をしませんでした。

 その翌日からの私の生活は、今までとはまるで違い、うきうきした楽しいものになりました。髪の手入れやお化粧品にも凝るようになり、家の中でも女性らしい服装をするようになりました。朝起きて坊やと食事をとり幼稚園バスをお見送りするとスーパーに出勤し、昼休憩は後藤君とお話しをして、勤務が終わると幼稚園まで坊やを迎えに行き二人で夕食を食べる。夫も二日に一度は私の帰宅時間を見計らって、スーパーに姿を現すと、百円程度の駄菓子を私に払わせて「帰ろー」と一緒に家路をたどることもしばしばありました。
「小説マジいい感じ。最強傑作かも」
「そう」
「新人賞ゲットしたら、さっちゃん、バイト辞められるからー」
「私はスーパーの仕事を続けたいと思うけど」
 私は夫と話しながら、ずっと違うことを考えていました。
「さっちゃん。働き神でも取り憑いたー?」
「え?」
 きちんと聞いてなく話の要旨がよくわかりませんでした。
「いや働き神」
「え?」
「マジで」
 この日の夫との会話はかみ合いませんでした。昼休憩時に後藤君が言った「あ、あの。実は……いや、またの機会に」と歯切れの悪い内容が気になり仕方なかったのです。その時の後藤君は頭を掻きながら上目遣いで、照れたような仕草でしたので、何となく私も緊張してしまいました。

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