小説

『ビヨンの妻』霧赤忍(『ヴィヨンの妻』)

「はあー、なるほど。そんな人いるんですね。うちも小さなスーパーですから経営が厳しくてね。薄利、薄利で細々とやっているんです。そこに、ご主人が現れて高額商品の刺身盛り合わせを、両手に抱えて逃げようとするものだから、何ごとかと思いましたよ」
 思わず私は吹き出しました。なんとなく予想がつき、可笑しさがこみ上げてきたのです。井上さんは私を見て苦笑いを浮かべられました。
「それで捕まえて訊いたんですよ。なんでこんなでかい刺し盛万引きするんだよって。そしたらご主人『別に食いたくないけど、コレしか金額が合うやつなかった』と言うんですよ。五千円ですよ。それを食べたくないのに盗むって」
「アッハハハハハ」
 私は声を上げて笑ってしまいました。夫は小説の時代背景と現在の貨幣価値の差がわからないのだと思うと可笑しさがこみ上げて、こみ上げて我慢できませんでした。ですが、笑ってすまされる問題ではありませんので、必死で口を押え、井上さんにいかなる処分もお受けしますと伝えました。
「いやいや。初犯でしょうし商品の買取りだけでいいですよ。今後同じことをしなければ」
「ありがとうございます。あっ!」
 私は財布を持ち合わせていませんでした。取りに帰って持ってきますと伝えました。
「明日でかまいませんよ。それより奥さんは何か仕事とかされていますか?」
「いえ、今は何も……就職先を探してはいるのですが」
「そうですか。ご主人も働かれていませんよね。もしよかったら就職先見つかるまで、ここで働きませんか? 実はレジが不足しているんですよ」
 予期せぬ提案に驚いてしまい言葉が見つかりませんでした。
「いやね。話してみると奥さん真面目そうだし、接客も上手そうだし。普通はね、万引き犯の身内を雇うってありえないけど、そのことは誰にも言わないので、ね、助けると思って」
 夫の万引き先で働くことに抵抗はありましたが、家計が苦しいこともありお受けしました。明日の九時から働くことが決まりました。
 スーパーを出ると日が沈みかけており薄暗い空でした。冷たい風が刺すように背中にあたり『ヴィヨンの妻』をやれと背中を押されたように感じました。
 その晩、夫は帰ってきませんでした。携帯は留守電になり、メールも返信がありませんでした。

「メリークリスマースいらっしゃいませ。二千三百円になります」

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