小説

『ビヨンの妻』霧赤忍(『ヴィヨンの妻』)

 私は悩み、また言葉を返せずにいると、坊やが幼稚園バスで帰ってきました。
「蓮太郎。今日からうちはビヨンの妻ですよー。ま、お前はたいした役じゃないから、暇だったら笑ってなー」
「ケケ」
 夫に抱っこされていた坊やが阿呆な笑い声を出しました。私も坊やの笑いにつられて思わず笑ってしまいましたら、夫が「よし、決まり。今日からうちはビヨンの妻だ!」と決定してしまいました。
 渋ることもできたのでしょうが夫を応援したい、一冊だけでも書いてほしいとの想いが強くありましたので受け入れることにしました。私は小説を読み込み、再現すべく尽力しました。
 そして万引きの連絡が入りました。

 ハッハと息を切らしながらスーパーに到着しました。ほぼ毎日通っているスーパーですので気まずさもあり、小規模で看板の装飾も剥げているスーパーが鬼ヶ島にみえました。
 恐る恐る入店し店員さんに伝えると、立入禁止の張り紙のあるドアから事務所に連れて行かれました。そこは商品が散乱しており、お弁当の匂いが充満している三畳ほどのスペースでした。
 すぐにパイプ椅子に座っている夫が目に入りました。足を組んでのけぞるように腰掛けていました。反省の素振りのない夫を見て、『ヴィヨンの妻』の料理屋からお金を奪うシーンをスーパーの万引きで代用したのだと、疑念が確信に変わりました。
「あの、この人の奥さんですか?」
 夫と向かい合わせに座る五十代くらいの頭髪の薄い、小太りの男性が私を見つめました。
「妻の大谷幸子と申します。このたびは誠に申し訳ございません」
「店長の井上です。奥さん、本当に困るんですよ。万引きなんかされると。それと、あ……」
 夫が急に立ち上がりました。私の脳裏に、あるシーンが浮かびました。ナイフを出して逃げるシーンです。
「ちょっと待ってよ」
 私は夫の前に立ちはだかりました。
「ゆすりだー!」
 夫はわけのわからぬことを井上さんに猛々しい口調で言い放ち、踵を返し走り去っていきました。
「えーと、大谷さんでしたかね。あのう、ご主人は何か問題がおありで……」
「大変失礼いたしました。実は――」
 私は全てを井上さんにお話ししました。怪訝そうな表情で聞いておられましたが、あまりにも奇想天外な万引き理由に、頬を緩めて笑ってくださいました。

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