小説

『ビヨンの妻』霧赤忍(『ヴィヨンの妻』)

 一通りレジの仕方を教えてもらい仕事に入りました。坊やは幼稚園に連絡したら迎えが必要になるが十七時まで預かり可能だと言われましたので、私は十六時三十分まで仕事をすることになりました。
「ありがとうございましたー。またお越しくださいませ。メリークリスマース」
 昨日は坊やを寝かしつけたあと、なかなか寝付くことができず頭を悩ませていました。夫が帰らないのは小説の再現を継続しているのだろう。夫は私がスーパーで働くこと、五千円を支払いしていないことを知っているのだろうか。仮に何らかの方法で知っている場合、夫はスーパーに三十四、五歳の痩せ形の綺麗な奥さんを連れてくるのだろうか。私は何度も『ヴィヨンの妻』を熟読し万が一に備え予習をしました。スーパーには早めに出勤して、井上さんに夫が今日女連れでお金を払いに来るかもしれないので、夕方まで待ってくれるようお願いしました。
「メリークリスマースいらっしゃいませ」
「早いんじゃない? 今日は二十四日だよ」
「アハハ、お店の決まりで今日と明日は言うことになっているんです。でもいいじゃないですか、二日もクリスマスを楽しめますから」
「それもそうだねえ。俺もできるだけ長く楽しみたいな。クリスマスも、あれも」
 レジに並ぶ中年男性は腰を前後に振りながら下卑た笑い声をあげました。愛想笑いをしていたら男性がしきりに卑猥な話をされたので、私も負けずに少々いかがわしい話をして下卑た笑いで返しました。
「あんた面白いし美人だねえ。日本人形みたいな髪型に、外人さんのような顔つきがたまらんねえ」
「アハハ、ありがとうございます」
 クリスマス特別セールだからか朝からお客さんが途切れることがありませんでした。
 お昼休憩中に鮮魚コーナーの若い男の子が話しかけてくれました。
「どうも、後藤です。このスーパーは変態の客が多いから、気を付けたほうがいいですよ」
「大谷です。よろしくお願いします。変態が多いんですね……わかりました」
 休憩中ずっと話をしていました。後藤君は丸顔に天然パーマ、そのうえ小柄でおとなしそうなのに冗談には毒があって、見た目とのギャップが面白く、午前の疲れはすっかり吹き飛びました。
 ですが午後もエプロンが翻るほどレジ打ちをし、自惚れかもしれませぬが、私のレジに多くの男性が並び名前を尋ねられたり、写メを求められたりと大忙しでした。
 奇跡はやはり起きるのでしょうね。十五時過ぎくらいでしょうか。紙の三角帽にアニメのお面をつけた男と六十代くらいの痩せ形の奥さんが私のレジに並びました。男が誰かはすぐに気付きましたが、小説通りあえて知らないふりをすることにしました。

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