小説

『ビヨンの妻』霧赤忍(『ヴィヨンの妻』)

 一カ月、二カ月とスーパーに勤めているうちに、お客さんにも様々なタイプがいることに気付きました。毎日同じ時間に来店し決まった商品だけを買う人。決して何も買わない人。賞味期限の長いものを店の奥から持ってこさせる人。レジで身内や知り合いの悪口を言う人。不手際がないのに商品にクレームをつける人。何度も万引きをする人。小説のために万引きをする阿呆。最後は夫で一度きりなのですが……。真面目そうに見えても人間は腹の内では何を考えているのか、わからないなと勉強になりました。
 勤務を終えて坊やを迎えに行くため、スーパーを出ると雨が降っていました。傘を買おうと店に戻ると「傘、忘れたんですか? 雨ひどいし送りましょうか? 車だし」後藤君が声をかけてくれました。
「大丈夫。悪いし」
「幼稚園までいくんでしょ。濡れますから、送りますって」
 私はお願いすることにして、坊やを迎えに行き家まで送ってもらいました。家につく頃には雨も上がり空一面美しい夕焼けでした。
「じゃあ、俺はこれで」
「よければお茶でも飲んでいく?」
「あ……じゃあ、せっかくなんで」
 居間にお通しするとお茶を入れました。坊やは疲れていたのか私の膝でウトウトしています。後藤君は胡坐をかいたり正座をしたりと落ち着かない様子でした。
「あ、あの……」
「うん」
「俺、ずっと言いたくて……」
 顔を赤らめる後藤君をみて、もしかして……何を言おうとされているのか、わかったような気がしました。
「えっと、俺、大谷さんに言わないといけない……」
 これ以上聞くべきではないと心が騒ぎました。聞いたところでどうすることもできないからです。
「言うのをやめてもらえない?」
「けど俺、どうしても言いたくて……」
 後藤君の私への気持ちは嬉しく思います。私も『ヴィヨンの妻』の終盤のシーンに男性と関係をもつような箇所があり、読みながら気分がソワソワしたこともあります。ですが、それは小説の話であり現実には起こりえないのです。私は夫を愛していますので、後藤君の愛を受け入れることはできません。
「後藤君。気持ちは胸の内にしまっておこうよ」
 後藤君はちゃぶ台に手をかけ身を乗り出して私を見つめました。その迫力で坊やが目を覚ましました。
「大谷さん! 実は俺が!」

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